第九更 暗闇から見た



 僕は暗闇にいた。


 暗闇から見た光はあまりにも眩しかった。その光に誘われて、僕はここまで来た。

 光に並び立てるよう、僕はもがいた。もがきあがいて過ごした日々は、がむしゃらで、目の前と明日しか見えなくて、けれどとても楽しかった。


 先生が燕返しを教えてくれた。覚束なかった牌の扱いが、少しずつ上達していく。高野は時々青痣を作って帰ってきたけれど、心なしかよく笑うようになった。時間が合えば、一緒にロアイヤルに行ってケーキを食べた。

 冬が来て、マスターがストーブを出してきた。ずいぶん古いそれの上にやかんを乗せて、沸かしたお湯でお茶を飲む。曇ったガラス越しに見る夜の芙蓉町は、いつもより綺麗だった。

 路地裏でチンピラに絡まれていたら、物凄いスピードでアルファロメオが来て、中から出てきた神音さんに助けられたこともあった。何故かそのまま滋賀まで連れて行かれて、スーパー銭湯に一緒に入った。真冬の琵琶湖畔を眺めながら、露天風呂でとりとめのない話をした。

 代打ちのお引きで、緊張しなくなってきた。クリスマスにはやくさんのお店でパーティーをした。六人集まって朝まで騒ぐのは久しぶりで、僕はとても幸せだった。


 一年が終わろうとしていた。僕の人生を大きく変えた、一年が。


   *


 十二月三十日。携帯電話の着信音で、早朝に目覚めた。

「……神音さん?」

「そこに高野くん居る?」

昨晩は高野が帰ってくる前に寝たので、所在が分からず、僕は休憩室を見回す。高野は紺のスーツを着たまま、何故かスポーツドリンクの二リットルペットボトルを抱いて、床に転がっていた。

「居ます」

「叩き起こして。事務所来いって伝えてくれ」

「あ、はい。何かあったんですか?」

僕は爪先で軽く高野の背を蹴る。神音さんの声が、いつもよりほんの少しだけ急いているような気がした。


「……やくちゃんの店が襲われた」

「え、やくさんが?」

思わず声が大きくなる。足元で高野ががば、と起き上がった。

「怪我は、」

「酷かねえよ。あー、じゃあもう成海くんも来な。詳しい話はこっちでする」

ぷつり、と電話が切れる。見下ろすと高野は、深刻そうにこちらを見ていた。

「何かあったの」

「……シンハライトが襲われたって、神音さんが」

「あいつらだ……」

高野は小さく舌打ちをして、ペットボトルを開けた。

「やくさんは?」

「わからないけど、怪我は酷くないって……」

「酷くないけど怪我してるってことか」

スポーツドリンクを一気に呷り、立ち上がる。見るからに不機嫌だった。

「着替えて事務所行く」

「あ、僕も、呼ばれたから。ちょっと待って」

慌てて自分も身支度を整える。休憩室を飛び出すと、シャツだけ替えた高野が、玄関前で煙草に火を点けていた。


「高野……さっきあいつらって言ってたけど、心当たりがあるの?」

「ちょうど昨日探ってたんだ。最近この辺で好き勝手やってる奴らがいてさ。どうも中国系の組織みたいで……」

歩きながら話していると、シンハライトの前に来た。人の気配は無い。

「……先に事務所だな」

まだ薄暗い芙蓉町を並んで歩く。やくさんの容体が心配だった。


   *


「やくさん……!」

「あー大丈夫大丈夫、これぐらいなんてことないよぉ~」

辿り着いた事務所の応接室のソファで、やくさんはへらへらと笑っていた。頬にはガーゼが貼られ、シャツから覗く腕にも包帯が巻かれている。僅かに目元も青じんでいて、痛々しい。

「本当に、大丈夫なんですか……」

「かすり傷だよ。お客さんも無事だしね! これはね、酒飲んでたのに暴れたから、足もつれて転んじゃっただけ」

「ええ……」

「勘弁してくれ。行ったら床でぶっ倒れてるから、死んでんのかと思ったじゃねえか」

神音さんが腕を組んで壁に凭れつつ、そう言った。高野はやくさんをじっと見つめてから、神音さんのもとに近寄った。


「昨日言ってた、中華系のとこの仕業ですか?」

「うん。やくちゃんのお手柄で一人生け捕ったから、今向こうで情報吐かせてる」

「やくさんが?」

驚いて彼を見ると、にやりと笑って胸を張った。

「酒瓶口に突っ込んで潰した」

「……」

「相手が溺れ死ななくてラッキーだったよ」

神音さんはポケットから携帯電話を取り出しつつ言う。

「で、やっぱり最近おいたしてるグループと同じみたいだな。薬撒いてうちのシマの店脅して金巻き上げてホームレス殴って……ここンとこ起きてる大体の面倒事は、今回の連中のしわざで間違いなさそう。ようやっとシッポ掴めたからな、元締め叩くぞ」

「はい」

高野の声はいつもより低かった。見ると拳を固く握っている。

「……まだ吐かないんですか、そいつ」

「ん? あー、そうね。そうなんじゃない?」

「どこですか」

高野が部屋を出ようとする。

「なんで」

「俺がやろうかと」

「あ?」

ドアノブに手をかけた高野と目を合わせた神音さんが、小さく動揺した素振りを見せる。

「何お前、もしかしてキレてんの」

「……そうですよ」

その声に僕も動揺した。

「やくさん殴られて、おとなしくしてられるほど、俺大人じゃないっすよ」

「……高野ちゃん」

やくさんは、嬉しさよりも驚きが勝っているのだろう、ただ目を見開いていた。扉を開けた高野の肩を、神音さんが掴んで引き戻す。

「まあ待て、わかった、よくわかった」

大仰に溜息をつく神音さんの口元は、緩んでにやけている。

「お前本当……なんというか、甘ちゃんだな」

「……すみません」

「いや、いいんだ。そういうところ嫌いじゃない」

高野の背中をばしんと叩いて、その胸ポケットから煙草を抜き取り、一本咥えて顔を顰めた。

「エコーかよ……」

流れのままもう一本出して、高野の口にも押し付ける。咥えたのを見ると、箱を高野の背広に戻した。

「拷問は連中に任せな。お前が殴り殺したら元も子もねーんだから」

「……」

神音さんは、愛用している馬の絵の彫られたジッポを取り出した。二本の煙草に火が点される。


「成海くーん」

「……はい」

吐いた煙と共に、彼が僕を呼ぶ。

「お前これ見てどう思った」

親指でやくさんを示され、僕はきっぱりと答えた。

「許せません」

「ふーん」

神音さんは、……嬉しそうに、というよりは、悪だくみをしている子供のように、笑った。


「じゃあ今回は君らにお任せしようかな?」

やくさんが、マジかよ、と小さく呟いた。


   *


 その日の夜、事務所に帰ってきた神音さんは、僕達に実に嬉しそうに連中のアジトがわかったと言った。

「高野くんに鉄拳制裁させてもいいけど、どうせならスマートにやりたいだろ?」

うちのシマの店から盗られた金も、取り返さねえとな。そう言って神音さんは、僕らの前のソファに腰を沈めた。

「賭け麻雀だ」

僕は全ての意図を理解して震えた。

「……先生は、」

「呼んでない」

「……僕の横は誰が座るんですか?」

「俺」

さすがに面食らって、ええ、と声を上げてしまう。

「なんだよ、不満? 俺だって一時期先生のお引きやってたんだぜ」

「いや、そんなんじゃ」

神音さんの隣で腕を組んで目を閉じていた高野が、薄眼で僕を見た。寝ているものだと思っていたが、起きていたらしい。


「ねー成海ちゃん……」

覇気のない声がして、僕は隣に目を向ける。やくさんは、ソファの上で膝を抱えて座っていた。レザーパンツと靴下の間から、包帯を巻いた足首が見える。その手には、夕方僕たちが買いに行かされた、やたら長い名前の期間限定ドリンクが握られていた。緑のストローには僅かに噛み跡がある。

「あのさ……」

やくさんは、珍しく言い淀んでいた。いつも飄々と、軽やかかつ巧みに動く舌は、なりを潜めている。何か迷うように、その指がプラスチックのカップを撫でた。


「……傷は、痛みますか?」

思わず、僕は呟く。

「ん……?」

伏し目がちに、彼がこちらを見る。

「いや……そうでもないよ、本当。見た目ほど酷くないっていうか、ちょっと大袈裟なんだ、これ」

彼は腕の包帯を、形の良い爪で軽く引っ掻いた。声は落ち着いている。普段と比較すれば、落ち込んでいるようにすら聞こえた。けれど僕は直感的に、これが彼の素の声なのだろうと思った。

「……早く治るといいな」

そう言った僕に向けられた、探るような視線だけは、いつも通りだった。誰よりも嘘が得意な薬師寺一真に、嘘は通用しない。逆手に取れば彼は、本音を本音として受け取る他ないということだ。

「治ったら、またご飯、作ってくださいね」

やくさんは微笑んだ。大人びたその笑みは、諦めたような、それでいてほんの少し嬉しそうに見えた。


 

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