第八更 誰よりも、最後まで
「俺、入ります。神音さん。俺を鈴鳴組に入れてください」
……僕は目を見開き、高野を見た。その微笑みは変わらない。世界が急速に温度を失う。理解が及ばない。言葉を反芻する。……鈴鳴組に、入る。高野が。
「あ、そ。決心ついた?」
「はい」
間髪入れずに答えた高野は、……至って平然としている。どういう、ことだ。
「ごめん、成海。話してなくて」
正座して、膝を僕の方に向け、高野はずっと微笑んでいて。握った拳の中で、爪が手のひらに食い込む。
「神音さんに誘われてたんだ。組に入らないかって。もう結構前から、かな。成海と先生と、四人で麻雀、朝から打った日あったでしょ? あの何日かあとに、話して。それからずっと悩んでたんだけど」
沈黙。言葉が見つからない。思考が上手くまとまらず、僕は目を落とす。
「……成海と一緒に戦いたいんだ、俺も」
少しの沈黙の後聞こえた、優しげなその声に、顔を上げる。
「お前を守りたいとかそんなんじゃなくて。何もできないままは嫌なんだ。俺にも出来ることがあるって思いたい。お前と、」
高野は言葉を切って、目線を遠くにやって、黙った。僕は、……僕は、嬉しかった。喜んでいる自分に嫌悪を感じながら。
高野はかつて僕に言った。僕のためではなく、自分のために僕を救ったのだと。命を賭して守ったのは僕ではなく、自分の矜恃なのだと。それが僕の為の嘘だなんて思うほど、僕は優しくない。高野は本気でそう思っていて、それだからこそ、彼を優しいと思う。優しくて悲しいから、僕は高野に、恩を返したい。
「……本気、なの」
声は震えていた。
「その世界って、たぶん、高野が思ってるよりずっと怖いよ。わかってるの」
高野は静かに頷いた。優しい表情だった。
「わからないなりに、わかってるつもりだよ。成海」
僕は必死に説得を続けようと口を開く。思考が追いつかず、出てくるのは子供の言い訳みたいな言葉ばかりだった。
「僕だってまだ、全然わからないことだらけで、それでも怖いことたくさんあるし、それなのに高野。わかってないよ。全然わかってない。高野が行こうとしてるのは、なろうとしてるのは、お前が思うより、僕なんかよりずっと……」
……その目が揺らぐことはなかった。僕は口をつぐみ、瞼を閉じた。
「……いや。わかった。お前が、本気なら。僕が、止める理由なんて、ない」
嘘だ。そうじゃない。僕は本気で止めたいと思っていなかった。説得するつもりなんて、本当はなかったんだ。
「……成海」
名前を呼ぶ声は穏やかで。目を開けると、いつもの金色の瞳が眩しい。
「ありがとう、成海」
僕は、どんな顔をしていただろうか。僕を見て、高野はどう思っただろうか。
……高野は座布団を降り、神音さんの方に向き直り、畳に正座した。両手をつき、深く、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
神音さんは、……神音さんの表情は、硬かった。じっと試すように高野を見つめていた。
「……そりゃ、こっちのセリフだよ。俺の分までしっかり働いてくれや」
その表情に似つかわしくない、いつも通りの飄々とした声で、彼はそう言った。高野はまだ、頭を上げない。神音さんは机の上の日本酒を取って、一口飲んだ。
「……顔上げな、高野」
僕は高野の横顔を見ていた。まるで知らない人を見ているみたいだった。
「飲め。……ちゃんとした盃事もやるだろうけど、それより先に、お前は俺の弟ってことにしといてやる。その代わり、飲んだらもう逃げらんねえぞ」
差し出された猪口を、高野は躊躇いなく取った。一息に呷り、空になったそれを見せ、神音さんと対峙する。
「……これで、認めてくれますか?」
「上出来だ、兄弟」
にやりと神音さんが笑った。猪口を取り、机に置く。
「高野。俺と一つ、約束しろ」
「……はい」
「長生きしな。少なくとも、俺より。……いや」
静かな、それでいて重々しい、初めて聞く神音さんの声だった。
「お前が守りたいもんより、先に死ぬんじゃねえぞ」
「……わかりました。俺は……死にません。生きます、誰よりも、最後まで。約束します」
突然視界が歪んだ。はっとして、慌てて俯いて、滲んだ涙を悟られないようにする。
「俺も、一つ、お願いしてもいいですか?」
「……へぇ。何?」
まばたきを繰り返して、雫が零れないように注意して。顔を上げて、高野を見る。晴れやかな笑顔だった。
「これからも、神音さんって呼ばせてください」
「ふはっ!」
神音さんは、子供のように無邪気に笑って。
「特別だかんな」
と。高野の頭をくしゃくしゃに撫でたのだった。
*
高野の盃事に、僕は同席しなかった。先生が「しょうもないから行かなくていい」と言って麻雀の相手をするよう催促してきたからだ。袴の高野と神音さんを、ちょっとだけ見たかったのだけど。
「前に見たが、七五三みたいでダサかった」
先生が白牌を暗カンしながら言う。
「いやぁ……神音さんって、確かこないだ三十三歳になったとこですよね? 七歳って、ほとんど五倍の年齢ですよ……」
鼻で笑われたが、先生は神音さんと同い年だ。
「二人とも、お昼ご飯できたけど食べる?」
マスターがドアの向こうから顔を覗かせた。言われてみればお腹が空いている。時間は十三時ちょうどくらいだ。
「あ、いただきます」
「俺も食う」
「じゃあおいで」
休憩室を出ると、ケチャップとホワイトソースの香りが鼻をくすぐる。オムライスだ。ふと、高野はお昼ご飯ちゃんと食べたかな、と思った。
三人並んでカウンターに座り、スプーンを手にしたところで玄関を開ける音がした。開店時間前に問答無用でこの扉を開ける人は限られている。
「あー疲れた」
雪崩れ込むように神音さんが入ってきた。カウンターまで来て、うまそう、と僕たちのオムライスを羨ましげに見ている。
「神音、食べてきたんじゃないの?」
「食った気しねーよ。いろんな奴に話しかけられるしよ……なーにが初弟子だ……弟子なんかとるかよ俺様が……」
マスターの隣に腰掛けながら、彼がトレンチコートを脱ぐ。珍しくジャケットを着ていない。シャツの前も、普段仕事に行く時は一番上まできっちり留めてネクタイをしているのに、今日は三つほど開け放っている。
「高野は?」
一連のやりとりを意に介せずオムライスを食べていた先生が、頬張ったまま聞く。
「あー……」
気怠げに肘をついて、遠い目をしている。
「……俺は止めたんだぜ」
「……?」
帰ってきたらわかるさ、と言って、神音さんは眉間に皺を寄せたまま目を閉じた。
*
高野が帰ってきたのは、二十二時を過ぎたころだった。夕方、お祝いと称してシャンパンを一本持ってきたやくさんと共に、僕たちは揃って彼を迎えた。
「ずいぶん遅かったね」
マスターが温かいコーヒーを淹れながら言う。
「はい、まあ、そうですね……」
高野は何故か照れたように笑った。寒かったのだろうか、モッズコートの前を首元まで閉めている。
「とりあえず座んなよ、高野ちゃん。上着脱いでさ」
「あ、あー、ですね」
僕はぼんやりとその会話を聞きながら、自分のコーヒーカップに手を伸ばした。ふと目に入った神音さんが、苦笑いしていたので、僅かに違和感を覚える。
「親父さんにでもつかまってたの? 盃事、昼に終わったんでしょ。今までどこ行ってたの」
高野に目を戻すと、曖昧に微笑んでいる。コートのジッパーにかけた手は、止まったままだ。
「……
「は? 颯山?」
ぎょっとして全員が高野を見る。いや、正確には、全員ではなかった。神音さんがいつも通りの声で高野を呼ぶ。
「高野くん、上、脱ぎな」
「……はい」
「コートだけじゃねえぞ。全部だ」
「……っす」
「え、ちょ……」
戸惑う僕らの前で、観念したような顔をして、高野が服を脱いでいく。最後にシャツを脱いで、僕たちは、硬直した。
「……不動明王か。それ、お前が選んだの?」
「はい。彫り師の……」
「巴だろ」
「そうです、巴さん。色々提案してくれたんですけど、これがいいかなって」
不動明王。高野の背中には、黒い線で大きく、鬼のような仏が描かれていた。色はまだ入っておらず、線画だけだったけれど、その形相と燃え上がる炎は、すでに凄まじい迫力を湛えている。
「さすが、京都一の手彫り師だな。色が付いたらまた化けるぞ」
「……神音ちゃん、よくすぐにわかったね。これが不動明王って」
ぽつりと呟いたのは、やくさんだった。
「あったりめーよ。おやっさんが背負ってんのと同じだ」
「え、そうなんですか」
高野は上半身裸のまま頭を掻いている。
「知らずに入れたのかよ。とんでもねーな、まったく……」
神音さんが溜息をつく。
「……俺はやめとけって言ったんだぜ。今どき墨なんか入れなくても誰も何も言わねえし、俺だって入れてねーし、入れたら不便なことばっかだって。なのにこいつが……」
「けじめですから」
高野は、微笑みながら、しかしきっぱりと言い切った。
「自分のために、ちゃんとけじめつけたくて。無理言ってやらせてもらいました」
痛くて時間かかっちゃいましたけど、と笑う。僕はハッとして、慌ててコーヒーを飲んだ。気付かず開けっぱなしだった口が乾いている。
「……悪くないな」
ひた、と先生の声が響いた。
「お前に似合う」
「……! ありがとうございます!」
高野が頭を下げる。変わらない。何も変わらない、いつもと同じ高野八千だ。けれど。
高野が、僕を見た。僕は急に怖くなって、目を逸らした。平静を保てている自信がなかった。
「……やく。シャンパン開けようか」
マスターが立ち上がり、カウンターへ向かう。
「ん、あー。そだね」
後を追うようにやくさんが立って、高野が歓声を上げる。
「シャンパンですか? 俺のために?」
「お祝いだからね~」
グラスが運ばれてくるまでの間に、高野はすっかり上の服を着てしまった。
「言っとくけど、出世払いだよ? 良いの持ってきたんだから」
「えー大丈夫かなあ」
「パチスロやってないで金貯めろー」
「ちょっと神音さん、キツイこと言わないでくださいよ……」
へらへらと笑いながら、僕の隣に高野が座った。僕はコーヒーカップから手を離して、机の上でそっと指を組んだ。
「……高野」
見ると彼は、少しだけ不安そうな笑顔で僕を見ていた。……何も変わらない。高野八千。彼そのもののような、笑顔だった。
「これからまた、一緒に頑張ろうね」
僕はきっと、上手に笑えていたと思う。高野は眉を下げて、ありがとう、と呟いた。
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