第七更 無二の友達


 こいつのやり方が読めてきた、と先生は言った。


「……へ? やり方?」

「戦い方だ」

神音さんが首を傾げる。先生は時々気まぐれに僕に稽古(と言っても基本的には一緒に卓を囲んで打つだけだが)をしてくれて、今日は珍しくずいぶん長くやっている。夕方からずっと、もう六時間近くになる。神音さんがふらりと現れて、僕は日付が変わっていることに気付いた。


「……戦い方って。お前、もう成海くんに教え始めて一カ月近く経つけど」

「そうだ」

先生が強めに打牌する。タン、という音で、対面の高野が顔を上げた。

「一カ月近く経って、ようやく、読めてきた」

静まり返ったその場に、僕は自摸していいのかわからず、神音さんの顔を盗み見た。


 その目が、見たことのない揺らぎを浮かべている。強張る表情は、確かに——恐れを表していた。


「……!」

初めて見るそれに、思わず息を飲む。しかし彼はすぐに、いつも通りの皮肉気な笑みを浮かべた。

「……そりゃ期待して良いってことか?」

「当然だ」

見上げた先生の眼光は鋭い。


「今に見ていろ。こいつは俺より強くなる」

──言葉が耳から脳に響いて、身体が震えた。先生、今、なんて。


「成海にあるのはただの運じゃない。場を飲む力だ。対人戦で、相手を恐れさせてコントロールすることにおいて、こいつは俺より向いている」

「怖えよ」

神音さんはきっぱりと言って笑った。

 僕の身体はまだ震えていた。何が恐ろしいのかわからないほど恐ろしかった。そして同時に興奮していた。何に? わからない。


「だが、俺のやり方だけ教えているのはむしろ良くないと思う」

先生は椅子の背にもたれて、纏った空気を弛緩させた。顎で僕を示したので、慌てて自摸る。

「こいつには、いろんな奴と打たせたい。いや、そうするべきだ。神音、なんとかしろ」

「……なんとかしろって、お前ねぇ……」

苦笑いする神音さんに、高野がぽつりと呟いた。

「成海、もう代打ちに行けるんじゃないですか?」

僕達は沈黙した。高野はそれに気づき、はっとして、慌てて笑った。

「いやっ、ほら、お引きで付いて行けばって意味で! そしたらいろんな人相手に打てるかなって思って!」

「……どうなの、先生」

神音さんがにこりともせずに尋ねる。

「お引きにできるの、成海くん」

「……できるだろうな」

先生がゆっくりと頷いたので、僕は小さな絶望を感じた。荷が重すぎる。

「いや、むしろ、やらせてみたい。成海、お前、次からは付いて来い」

「え、え……でも、神音さん」

「あーいいよいいよ、先生が言うんだから。そりゃもう」

さぞかしおもしれーんだろうな? と、神音さんが悪そうに笑った。僕は思わず高野を見る。高野は、泣き笑いのような、何とも言えない顔をしていた。動揺しているようだった。僕だって驚いている。


 高野が、あっちの世界に僕の背中を押すような提案をしたから。


 だって高野は僕を助けてくれた。あの世界から僕を救ってくれたのは高野だ。僕が代打ち師をやる、と言った時も、頑張ってねと言う声がどこか不安そうで、きっと本意ではないんだと思っていた。それなのになんで、あんなことを言ったんだろうか。



「大切な友達だからだよ」

数年後に、そんな話をマスターにしたら、そう言われた。

「大切で、自慢の友達だから。心配だけど、それ以上に、見たかったんじゃないかな。友達のすごいところを。そういう気持ちって、別に矛盾じゃないと思う」

目元に僅かな皺を作って微笑むマスターを見て、僕は、やけに悲しくなったのだった。


 そういう訳で、僕は先生のお引きとして代打ちに入ることが増えていった。必然的に、すずめに居る時間は減っていった。代打ちのお引きは、何度やっても緊張した。その分学ぶことも多かった。一回一回、心に刻むようにして、僕は少しずつ自分の〈勘〉や〈経験〉の精度が研ぎ澄まされていくのを感じていた。そういう感覚は久しぶりで、嬉しくてワクワクしたけれど、同時に恐ろしさも募っていった。その恐ろしさでさえも、慌ただしい日々の中で、霧散していった。


   *


 路地裏から狭い空を見上げ、高野八千は煙を吐き出した。

 短い秋が終わる。足を引き摺るように去っていった夏が、今は少し恋しい。時刻は深夜二時。長袖とはいえ、スウェット一枚にエプロンだけでは、もう肌寒さを覚える。眠らない町、芙蓉町も、人気は少なく物寂しい。薄暗い街灯の灯りが、紫煙の向こうで揺れている。


 煙る視界は、今の心境を映しているようだ。停滞と流転。自分を置いて、全てが移ろいゆく感覚。


 高野八千は、自分の生に満足したかった。必要とされたい。守るべき何かのために生きてみたい。そんな、とても普通で贅沢な望み。思えば思うほど、自己嫌悪は肥大していった。その望みが結局、利己心に由来するものであると、自覚していたから。


 自分、自分、そればかりで、浅薄な考えで──無二の友達は、手の届かないところに行ってしまった。


 風に攫われて、煙草の灰が落ちる。見上げた空に、月はない。ビルとビルの隙間、この路地裏は、高野八千にとって特別な場所だった。あの春の夜、同じようにここで、最後の一本を弔うように吸っていた。自分を変えてくれた夜。緩やかな下り坂を惰性で転がるだけだった自分を、一瞬で深い虎の穴に落とした場所。


「……」


 答えはとうに出ている、なんて言えたら良かった。必要とされたい。守るべき何かのために生きてみたい。それがたとえ自己満足でも構わない。そうきっぱりと、言えれば良かったのに。


 しゃがみこんで、吸い殻をアスファルトに押し付け、立ち上がる。遠くの喧騒も、消えたネオンも、いつもは気にならないのに、今は焦燥感を増幅させる。黄金色の瞳は伏せられて、その光を失っていた。指先が冷える。立っているのも億劫で、汚れた壁に凭れた。

 それでも、きっと自分は、最後には動いてしまう。何もできないまま、何もしないままで、留まり続けることを許せない。誰かに迷惑をかけるとわかっていても、いつか自分の首を絞めるとわかっていても、きっと自己満足のために、足を踏み出してしまう。


 それでいい。どうせ転んだ人生だ。この穴の中で、精一杯踊ってやれば良い。怖くないと言えば嘘になるけれど、こんな焦りの中に立ち止まり続ける方が、よっぽど怖い。


 答えはもう出ていた。背中を押してくれる何かなど、必要なかった。高野八千は、勝手に動いて、勝手に転んで、勝手に立ち上がる、そうやって生きてきた。

 路地裏を出て、見慣れた道を歩く。その背中は、闇の中に紛れ、溶けるように消えた。


   *


 ある日、高野が僕と神音さんを呼び出した。

 料亭さゝ木。京都の有名な老舗和食店だ。個室の座敷に通されて、そのやけに格式ばった雰囲気に、僕は少し不安になる。


「奢るよ俺が」

それに気付いたのか、神音さんが馬刺をつつきながら笑う。

「俺が来たかっただけだし」

僕は頭を下げながら揚げ出し豆腐を箸で切る。隣の高野は嬉しそうに魚の煮付けを食べていた。

「めちゃくちゃ美味いです」

たわいもない雑談と食事をして、二本目の瓶ビールが来た頃だろうか。神音さんはにこやかに、しかしきっぱりと、高野を見据えて聞いた。

「それで、高野くん。話ってのは?」

高野は朗らかに笑って、はい、と返事をした。


「俺、入ります。神音さん。俺を鈴鳴組に入れてください」

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