第五更 深い夜に似た
数日後。
突然すずめに神音さんから電話が入った。午後八時に、ロアイヤルという喫茶店で待ち合わせだそうだ。電話を切って高野を見ると、どこか不安げな顔をしていた。
「高野?」
どうかした、と聞くと、慌てて首を振る。
「なんでもない! ロアイヤルの場所わかる?」
「たぶん。あの細い川沿いにあるおしゃれなところだよね」
高野は頷きながらグラスを拭いている。平日夕方の客足は遠く、今日のすずめも暇を持て余している。
「コーヒーもだけど、ケーキも美味しいんだよ、あそこ。食べてみて」
僕が微笑むと、高野は続けて、新しくできたドーナツショップの話や、新西國通りのつけ麺屋の話なんかをし始めた。僕たちは明日の食事の予定を立て、すずめの掃除をして、夜を待った。
*
結果から言うと、僕はその日、ロアイヤルでケーキを注文することはできなかった。
待ち合わせの十五分前に喫茶店に入ると、奥の席に先生がいた。僕は少し面食らって、けれどそちらの席に早足で向かって行った。
「先生、来てたんですね、今日。僕、神音さんだけかと、思……」
ソファの横まで来て、僕は固まった。先生の隣に座っているのは、見るからに一般人ではない、圧倒的な存在感を放つ──
「……お前が、哀原、ちゅう奴か」
低い声が僕の全身を震わせる。ロマンスグレーのオールバック、派手な柄のシャツに高そうな白い背広。僕は観察を止め、姿勢を正し、深く会釈をした。
「……哀原成海です。遅くなってすみません」
「……そない固くならんでええ。時間も遅れとらんやろ」
「ありがとうございます」
顔を上げると、先生が横目で僕を見ていた。表情はない。相変わらず読めない人だ。
「組長さん、ですよね」
この鋭い眼光の男性が、鈴鳴組の組長、神音さんと先生が「おやっさん」と呼ぶその人なのだろう。
「会うたことはないな? どうせそっちはこっちのこと、知っとるんやろうけど」
「もちろん、存じております。……関西最大勢力、剣崎会の直系組織、鈴鳴組の組長。……竜嶽さん」
きっぱりと言い切った僕を、はっ、と鼻で笑う。笑顔は意外と人懐こい感じだ。なるほど、と思う。組の噂はさんざっぱら聞いてきたが、あの鈴鳴を束ねるのが、この人か。
「どうせろくでもない話ばっかり聞いとんねやろ。お前、西木におったんやってな」
まあ座れや、と向かいの席を顎で示された。失礼します、ときちんと礼をする。“この世界”は、礼儀礼節がなっているだけでそれなりに扱ってもらえる。僕があの数年間で最初に覚えたことだ。
「西木組言うたら、身内の癖にうちを目の敵にしとる組の筆頭や。剣崎の傘下の中でも、お互い一等気に食わん。……なぁ、どないな話聞いてきた。うちのあることないこと、腐るほど聞かされたんやろ」
足を組んで皮肉気に笑う姿は、よく知る茶髪で赤い目のヤクザを彷彿とさせた。
「……さほど、ですよ。僕は直接雇われていたわけじゃなく、分家の中村組に属していましたから。それに正確には組織の人間ですらなかったので、組員と話すこともあまりありませんでしたし」
「そうやの。お前が組員やったら今頃五体満足ではおれんからな」
「……」
僕は笑顔を強張らせる。
「剣崎会の傘ん下には、でかいのが四つおる。鈴鳴は、組織の顔や。渉外もやる、シノギもやる、末端には世間で名の知れた社長も抱えとる。表と裏のちょうど狭間におる組やな。せやからか知らんが、クジャク、言われとる」
竜嶽さんが節くれだった四本の指を立てる。両手に十の指。確認して、僕は頷く。
「事務系のゴチャゴチャした仕事が得意なんは、大阪の近田ちゅう組や。裏方で暗がりにおるさかい、カラスと呼ばれおる。ゴミ掃除もするしな。力に物言わせて動くんは、兵庫の橘会いうとこや。ハヤブサなんぞ言われとるらしい。そないかっこええもんでもない思うが。
ほんで西木はモズや。モズ言うたら、早贄や。脅しと見せしめの担当、ちゅうわけや」
僕は思わず、へえ、と呟いた。剣崎会直系四大組織の名前くらいは聞いたことがあったが、鳥のたとえなんて知らなかった。一体どこで使われているのだろうか。
「そない見せしめ作るんが上手なとこから逃げてきよって、エンコも詰めんとうちに入りよったら、地の果てまで殺しに来るで西木は。俺ァあそこのそういう陰湿なところが嫌いなんやがな」
「はは」
……どうやら本当にお互い嫌いらしい。
「西木の人は、鈴鳴は仕事が雑だ、なんて言ってましたけど」
僕が片側だけ僅かに口角を上げて呟くと、竜嶽さんはくつくつと笑った。
「……ええの。素直な奴は好きや」
軽く頭を下げる。素直といっても、かなりオブラートに包んだ表現だったが。顔を上げると、先生と目が合った。相変わらず無表情でホットコーヒーをすすり続けている。
「……入るのか?」
「え?」
先生がひたと僕を見据える。
「お前、入るのか。鈴鳴に」
「…………へ?」
何が何だかわからず、口を開けたまま間抜けな声を出してしまった。入る? 鈴鳴組に? 僕が? 何故?
「なんや、話しとらんのか、お前ら」
眉根を寄せて、竜嶽さんが溜息をつく。
「てっきり神音かお前が話つけとるもんやと思うてたわ。相っ変わらず適当やのう、お前ら揃いも揃って」
「……神音が」
先生が腕を組んでふんぞり返った。胸ポケットの煙草の箱が潰れる音がする。
「その場で聞いてその場で答えさせろって。考える時間やったら断られるぞって言うから」
「手口が詐欺師やないか。可哀想に……ほんまお前ら恐ろしいな」
竜嶽さんが僕を庇ってくれるが、いや、本当に恐ろしい人たちだ。ひしひしと感じる。親である人にまでこの言われようだ。否、それより。
「待ってください。組に入るって? 僕が? 何故ですか?」
思わずこめかみを押さえる。そういえば、さっき竜嶽さんが『エンコも詰めんとうちに入る』なんてさらっと言っていたのを思い出す。冗談ではないのだが。
「いや、入る言うても。な、全。これと同じや。代打ち師やらんかちゅうことなんや」
僕を哀れに思ったのか、竜嶽さんの声は心なしか優しい。
「……代打ち師?」
おうむ返しにしたことで、頭が理解してさっと体が冷える。
「僕が? ……鈴鳴組の、代打ち? どうして……」
だって先生がいる。鈴鳴は雀鬼を飼ってるなんて、この辺で少しでも界隈に関わる者なら、誰でも知っているくらいだ。
「もちろん、全の代わりをやれちゅうてるわけやない。ただうちは今、こいつ以外代打ち持っとらんのや。大概こいつのせいやが……」
知らず知らずのうちに、僕は眉を顰めていた。竜嶽さんの言うことはわからなくはない。これだけの噂がたてば、誰も鈴鳴組の代打ち師なんてやろうとしないだろう。
「まあ、不便もあってな。わかるやろ、こいつもこんなんやからな。そしたら神音が、お前の話してきよったんや。筋のええのがおると、しかも運びも知っとる言うて」
いよいよ僕は頭を抱えた。本当に、油断も隙も無い人だ。
「西木の出やっちゅうから、俺は正直乗り気やなかったんやが……会うてみたら、なあ。お前、ええやないか。物分かりもよさそうやし、腕っぷしは期待できんが、打つのは上手そうや」
「いや、僕は……」
身を乗り出しかけて、ぐ、と言葉に詰まる。何か、言い訳を口にしたいが、しかし何に向けて言い訳すれば良いのだろうか。
両膝の上で握った拳に力を入れる。数秒の沈黙の後、先生が手を挙げてウエイターを呼んだ。
「ホットコーヒー。ブラック。あと、アイスミルクティー、甘くしていい」
影のように現れ影のように去るウエイターを、思わず見る。先生に視線を移すと、珍しく、少しだけ困ったような顔をしていた。
「……神音はいつもあれしか飲まない。お前、紅茶、嫌いじゃなかったよな」
何のことだかわからなくて、僕は押し黙った。回らない頭で必死に考えて、さっき頼んでいたアイスミルクティーが僕のためのものであるらしいことを悟る。
「あ、ああ……大丈夫です。紅茶、好きです」
こくり、と先生が頷いた。僕はなんだか気が抜けてしまって、椅子の背もたれに身を預けた。
「……成海」
ホットコーヒーが出てきて、僕の前にアイスミルクティーが置かれて、先生が沈黙を破る。
「俺は、鈴鳴組のことは、それなりに思い入れもあるし恩も感じちゃいるが、正直どうでもいい」
そうあっけらかんと言い放った。すぐ隣にその組の頭が居るわけだが、もちろん先生にとってはそれもどうでもいいのだろう。
「けど、神音がお前を鈴鳴組に入れるって言いだした時、……俺の弟子にしてもいいと思った」
瞬間。
体が震えた。
僕が。安田全の。理解が反応に追いつく。背筋をゾクゾクと駆け上ったのは。
「成海」
ひた、と先生の目が僕を射抜く。片方だけの、深い夜に似た紫色。
「俺の、弟子に、なれ」
「……はい」
思えばはじめから、僕は少しも、嫌だとか断るとか考えていなかったのかもしれない。欲しかったのはただ、僕を無理矢理にでも引き入れる言葉だけ。そして与えられたものは、比類無き強さを持つ一言。あの安田全が、僕を呼んでいる。応えない理由など、あるはずもない。
「……決まりのようやな」
竜嶽さんは言い、すっかり冷めているであろうコーヒーを口にした。
「そない重く捉えんでええ。神音が呼んだら来い、それだけや。あとはこの男から技でもなんでも盗み。……歓迎するで、成海」
出された手を、恐る恐る握る。無骨で熱い手だった。
「……よろしくお願いします。竜嶽さん」
「あぁ、堅っ苦しいのはええ。こいつも神音も親父て呼ぶやろ。お前も今日から息子みたいなもんや。そう呼び」
「!」
僕は目を見開いて、そしてすぐに笑みをこぼした。ついさっき会ったばかりで、たった今代打ち師の予備として、ただ口約束をしただけの僕のことを、『息子』と呼べるこの人は、やはり鈴鳴の組長だ。
「ありがとうございます。……おやっさん」
竜嶽さんは、……おやっさんはにやりと歯を見せて笑った。ふいに先生と目が合う。いつも通りの無表情だったけれど、僅かに頷いてくれた。嬉しくて、頬が緩むのを止められない。嬉しい。必要とされている。間違いなく僕は、生きている。そう実感する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます