第四更 別世界
僕が携帯ゲームで誰にも内緒で麻雀を練習していたのは事実だが、ゲームとリアルは当然全く違う。
少し前までの僕は、大型二輪や普通乗用車、原付だの二トントラックだのに乗ってそれなりの走りをしていたのだが、ある時気紛れにやったゲームセンターのドライブゲームで酷い成績を出したことがある。ゲームとリアルは全く違う。もちろん、麻雀も。鳴きはボタン一つではできないし、点数計算は自動でされない。牌の向こうに人がいて、その河と表情を読まなければならない。実戦はすずめで二、三度やっただけだ。牌の扱いさえまだ覚束ない僕が、『追い風』程度でどこまで走れるというのだろうか。
コンクリ打ちっぱなしの薄暗い無人ビルで、スーツの男性数人に囲まれて、僕は卓の前で必死に平静を装っていた。冷や汗を隠すのが精一杯だった。隣の神音さんはとてもリラックスした様子で、煙草を燻らせている。
僕だって、神音さんが無策で僕なんかを座らせているわけではないことくらいわかる。何の取引かは知らないが、居合わせているのがこれだけ少人数なのだから、本当に大きな件ではないのだろう。そうでなくとも何かしら保険があるはずだ。僕が負けても構わない何かが。
案外神音さんのことだから、僕をとかげのしっぽみたいに切って捨てたって構わないと思っているかもしれない。谷松神音はそういう人間だ。彼とは知り合ってまだたった半年だが、抜かりなく、見かけによらず安全志向で、清々しいほど残酷な人だと理解している。
けれど、それでも。彼は僕をサラブレッドだと言ったのだ。
追い風だのツキだのを心の底から信じるような性質の人ではないこともわかっている。それでいて十字を切ることに躊躇いはない。信じた振りをして、裏切られた振りをするのが好きなのだろう。でも、彼は、僕をサラブレッドだと言ったのだ。彼が何度裏切られても賭け続けるそれだと。僕への期待が少しも無いだなんて思えるほど、僕は大人ではない。
先生のようにはなれない。当たり前だ。僕が先生の本気を見たことはまだないけれど、すずめで戯れに打つ様子だけで、その強さは感じられる。
彼は、失くした左目で別世界を見ている。
一度、深夜、休憩室の雀卓の前に一人座って、月明かりに牌を透かしている彼の姿を見たことがある。恐ろしかった。美しかった。彼は麻雀そのものだと思った。
僕には、安田全を理解することはできないと思った。
神音さんだって、僕に先生を求めているわけではない。わかっている。だけど期待されたのなんていつぶりだろうか。何の見返りも提示されず、ただ助けてと言われたのは、『頼られた』のは、いつぶりだ?
なんてことはない、僕はただ、嬉しかったのだ。
期待は呪詛だ。こんなに怖いものはない。
*
結論から言うと、僕は圧勝した。
気が付くと勝負は終わっていた。名も知らない相手から、僕は、それこそお遊びのように、点棒を奪い続けた。使った役さえ思い出せない。役満こそ上がらなかったものの、ドラが乗った数え役満はいくつか出した気がする。というのも、点数計算はほとんど神音さんに任せきりだったので、正確な数字はまるで覚えていない。
本当に、あっという間だった。呆然とする僕の腕を取り、神音さんは僕を立たせた。
「じゃ、そういうことで。宜しくお願いしますね。ほな失礼」
あからさまな作り笑いで、彼は部屋を出ようとする。僕は唇を結び、すっと背筋を伸ばして、相手に一礼をした。
きっと先生はそうしないだろうと思ったから。
*
退室してすぐに、神音さんは僕の背中を軽く叩いた。
「やるじゃん。期待以上だわ。最高」
無邪気な笑顔に冷えた身体がじわりと温かくなる。喜びよりよっぽど安堵の方が大きかった。腕時計を確認して、神音さんは大通りまで僕の背中を押していく。
「助かった。ありがとな。お前、才能あるよ」
「いや、そんな……すみません、なんだかよくわからないまま……」
大通りで神音さんはタクシーを捕まえる。
「なんだかよくわからない? 本気で言ってるのか? 染め手三回も上がっておいて?」
僕をタクシーに押し込んで、にやりと笑う。
「まあ、話は後だな。戻ろうぜ。お前が早く終わらせてくれたから、レースに間に合う」
無理矢理隣に入ってきた神音さんが、運転手に「京都競馬場」と告げた。数時間前に通った道を戻っていく。恐ろしいほどの良い天気が、僕の未だふわふわした頭に染みた。
そして、僕の秋華賞の予想は外れた。
*
数日後、僕はすずめの休憩室で雀卓の前に座らされていた。
「……待ってください」
振り返ってソファの神音さんを見る。
「どうして僕までやることになっているんですか?」
「僕まで、じゃなくて、君のために準備してんだよ」
僕は横目で卓を見た。向かいの高野が牌を拭いては置き、時々こちらを伺っている。左隣には先生が座っていて、虚空を見つめながら煙草を吸っている。空いた右隣に神音さんが座った。
「改めてこないだはどうも。そうだ、お礼は何がいい? 欲しいものあるかい? 成海くん」
「いや、それは全然……いいんですけど。それより、この状況はなんなんでしょうか」
高野が卓のボタンを押し、全ての牌が中央の奈落へ吸い込まれる。
「朝五時に起こされて急に麻雀するって言われても、ちょっと……」
「ごめんごめん。なんか都合良いのが今しかなくて」
早いほうが良かったし、と言って神音さんはサイコロを振った。
「こないだの。お前の麻雀見てさ。……二、四、六……先生にも、見てほしいなと。思ったわけ」
神音さんに続いて、高野が山から牌を取る。
「……俺も見たいな。成海の打つところ。すごかったって聞いたし」
高野の声に覇気がないのは本心ではないからか、寝起きだからか。そもそも彼は僕より朝が弱い。心なしか目も虚ろだ。こんなんで麻雀なんかできるのだろうか。
「……」
先生が無言で自模る。こちらはいつもと同じように見える。意外と朝は弱くないのだろうか。あるいはいつも眠いのかもしれない。
「先生に見てもらうほどのものでは……ないですし、というか、朝早過ぎて頭も回らないんですけど、大丈夫ですかね……」
「大丈夫だろ」
神音さんは元気そうだ。話に聞くところ、この人の生活リズムは完璧に夜型なので、午前五時は朝ではない可能性まである。
「前と同じように、遊びで打ってくれりゃいいから。気負わずやってくれよ」
「……はあ……」
前は遊びではなかったのだが。
僕は自分の配牌を見た。慣れない手つきで綺麗に並べ直す。
真ん中に索子の三三四五六六が現れた。これは悪くないな、と僕は一巡目、無難に現物を切る。四か五がくれば、タンヤオと一盃口が狙える手牌だ。二巡目、三巡目、危なそうな牌を避けて捨てていると、三色同順までついてきそうになっていた。でもそろそろ先生が上がるかもな、と思っていると、案の定立直の声が出た。やはり速い。僕は少し悩んで、とにかく安全な牌を切りながら、自摸に賭ける。七巡目に四索が来て、思わず声を上げた。
「つ、ツモです」
「お」
神音さんがにやりと笑う。
「見せて」
「はい……」
牌の倒し方すら覚束ない。諦めて一枚ずつ倒すと、先生が少し笑い、高野はおお、と感嘆を漏らした。
「タンヤオ、平和、一盃口! 面前もついて二千六百オールだ」
「ありがとう高野……」
「え、なに?」
僕が点数計算さえできないことを高野は知らない。
「……成海」
ずっと黙っていた先生が、漸く口を開いた。
「え、あ、はい」
「ここ」
先生が僕の河の中から、三筒を指差す。
「何故切った。三色同順を捨ててまで」
「あ、えーと」
僕は逆に手牌にある六筒を指した。
「その時は……それか、これを切ることになったんですけど。その直前の先生の立直が、八筒だったので……」
先生が僅かに目を見開いた。
「……跨ぎ筋なんて誰に習った?」
「え? マタギ?」
神音さんがくつくつと喉を鳴らす。
「それ、なんで危ないと思ったの?」
「うーん……なんでって、きちんと説明することはできないんですけど……」
先生の立直牌が八筒だったから、としか言いようがない。危なそうだったから。三筒の方が放銃しにくそうだったから。薄い経験則と、イメージ。はっきり言って、なんとなくだ。
「ちなみに先生の上がり牌は?」
神音さんが手を伸ばして先生の牌を倒していく。現れたのは一気通貫にドラが三つほど乗っている恐ろしい手だった。これをたった三巡ほどで揃えるのだから、異常だ。
「一索か……まあ結果的には違ったけど」
「でも六筒、実は俺の上がり牌なんですよ」
高野がのんびりと言った。ぱっと先生と神音さんがそちらを見る。
「いや、一盃口だけですけど。頭それで作ろうとしてたので」
「……ふーん」
二人は同じように椅子に深く座り直し、腕を組み、顎を触った。神音さんはまだ口元をにやけさせていたが、先生はどことなく目が鋭くなっていた。
僕は高野の河をほとんど意識していなかった。仮に見ていたとしても、あの河から六筒は読めなかった。つまり偶然だ。
「……ま、次行くか」
口を開いた神音さんが、牌を中央に寄せる。慌てて僕も自分の手牌を崩した。
その後は特に止められることもなく、先生がびっくりするような手を作ったり、神音さんがさらりと数え役満を出したり、高野が満貫を上がって喜んだりしていた。僕もほどほどに勝てたけれど、前の代打ちほどではなかった。やはり、先生がいると思い通りにはいかない、と感じた。
「成海、疲れた?」
高野の声にハッとして顔を上げる。
「ごめん。ううん、考え事してただけ。先生、すごいなって」
慌てて手前の牌を混ぜる。高野は少し眉尻を下げ、微笑んで僕を見た。
「どう、成海くん」
神音さんは、煙草に火をつけながら僕に尋ねた。
「対人戦にも慣れてきたかい」
優しげな言葉とは裏腹に、探るような冷たい声だった。
「はい、でも、やっぱり難しい……ですね。前とは全然違う感覚だし、先生がいると、全然」
僕がそこで言葉を止めると、「全然、何?」と神音さんが聞いた。
「全然、えっと。思い通りにならないなって」
先生が横目で僕を見た。右目。紫色だ。朝焼けに似た色。
そこで漸く、時計が十二時を回っていることに気付いた。
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