第三更 地図と目的地
「トイレのほうはマスターが探してるだろうから、下の階行こう」
人で溢れかえる京都競馬場を、高野は慣れた様子で歩いていく。
「高野、結構競馬来てた?」
「大学行ってた時は、たまにかな。あと、最近は神音さんに連れてこられたり」
確か大学は二年ほど通って、そこから不登校気味になり、結局中退した……と聞いた。二年目までというと恐らく未成年のはずだが、触れずにおく。
「馬、かっこいいだろ」
遠くの馬場を眺め、高野は言う。
「元々結構好きだったんだけど、神音さんが熱く語るからさ。この頃また、すげーいいなって思うようになって。やっぱ走ってる馬ってかっこいいなぁ……」
嬉しそうな顔を見上げ、思わず微笑む。
「僕もこの間、語られたよ。競馬は音楽だって言ってた」
「あれ、わけわかんないけどおもしろいよなぁ」
高野がからからと笑う。
「あの人神様信じてるから、すぐそういうこと言うんだよ」
「ああ……」
谷松神音という人は、ヤクザの癖にキリスト教信者だ。
「本当に信じてるか怪しいけど」
……高野の言葉通り、とても敬虔とは言い難いが。
売店前の人だかりを、銀の頭を探して回る。
「あれだけ目立つんだから、探したらすぐ見つかりそうなもんなのにね」
僕より背が高い高野が見つけられないのなら、僕が探しても無駄だろう。諦めて手の中の案内図に目を落とす。そういえば、喫煙室がある。
「高野、き……」
顔を上げると、いつもの背中はなかった。
さっと体が冷える。周囲を見渡してみたが、それらしい人影は見えない。先生ほどではないが、高野だって目立つはずなのに。じっと立ち止まって、高野が行きそうな場所を探す。確か、パドック……が、目的地だ。
案内図で探そうとした瞬間、ポケットの携帯電話が震えた。取り出すと、表示された名前はやくさんだった。
「成海です」
「あ、ね、今どこ? 先生いた?」
「いや、いなくて……実は、高野とも、はぐれて」
「え、ちょっと。マジ? あー……」
電話の向こうで、やくさんが誰かに何かを伝えている声がうっすら聞こえる。十中八九、神音さんだろう。
「……もしもし?」
「はい」
「とりあえず、成海ちゃん、戻ってきてくれる?」
「わかりました」
高野とはぐれたことは不安だが、そのうち合流できるだろう。僕はそう思い、案内図をもう一度見た。地図と目的地さえあれば、迷わずに行ける。小さく溜息をついてから、人ごみを縫うように、僕は歩き始めた。
*
「高野くん、電源入ってないんだけど」
僕が戻るなり、神音さんは大袈裟な溜息をついてみせた。ふと、今朝の高野の話を思い出す。夜から充電器挿してたのに、反応してない、残りひとメモリしかない。そろそろ買い替え時かも。ていうかこの前雨濡れたんだよな……。
確かそんなことを言っていた、ような。
「充電切れてるのかもしれないです」
何故か僕のほうが罪悪感を覚える。神音さんはそれを笑い飛ばした。
「ま、いいや。そういう巡り合わせってことだろ」
立ち上がった神音さんが、僕の肩に腕を回す。
「やくちゃん、俺こいつと行くわ」
「……へ?」
やくさんは黙って、携帯電話を爪でカチカチと叩きながら、僕達を見上げた。
「……別に、いいけど。オレ一人でここで待ってるから」
不機嫌を隠しきれていないその表情に、僕は狼狽えた。行くって、どこに。
「悪いね~やくちゃん。勝ったらなんかおごるからさ」
「……勝つってどっちが?」
やくさんの声がどこか意地の悪いものに変わり、にやりと不敵に笑った。どっちも、と吐き捨てるように言った神音さんが、僕を引き摺るように歩き出す。
「あの、どこに、」
「え?」
「どこ行くんですか」
雑踏のざわめきに飲まれないよう、声を張る。
「賭けだよ賭け」
賭けにでんの、と、彼は馬券をちらつかせた。僕の頭を抱えるように進む神音さんを、心なしか人の群れが避けている。
「賭けって……」
目の前の馬券をよく見ると、書かれた数字は十二だった。単勝、十二番、ステラクラウン。五万円。まさか。
「ぼ、僕の十二って……あんな適当な、あれでこれ、五万も⁈」
声を上げると、神音さんはにやりと笑った。
「八倍になって帰ってくるぜ、この紙切れが」
大事に持っとけ、と押し付けられたそれに息を飲む。
「ひえ……」
恐ろしさと興奮が、じわじわと背筋を這い上がった。
「つまり今日のお前はツイてるってことだ」
競馬場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。停車していたタクシーに僕を押し込み、その隣に彼が無理矢理入る。
「ここで」
神音さんが携帯電話の画面を運転手に見せつつ、内ポケットから煙草を出す。僕はそれを見て、両手で握っていた馬券を、慌てて神音さんのポケットに入れようとした。
「や、待ってください、これ、もらえません。買ったの神音さんだし」
「けど勝ったのはお前だよ」
彼は煙を吐き出しながら言う。
「どんな馬でも速くなる魔法ってのが一つだけあんだけど、知ってる?」
「え……」
「追い風だよ。追い風の駄馬は向かい風の駿馬に勝るのさ。その上お前はサラブレッドだ、成海くん」
僕には何も理解できなかった。タクシーは市街地を走り抜け、僕の知らないどこかへ向かっている気がした。
「おやっさんから急な代打ちの依頼が入ってね」
指先で煙草を弄びつつ、彼は話す。おやっさん、というのは、彼が所属する〈鈴鳴組〉こと反社会的勢力組織のアタマ——組長のことである。
「当然先生を連れて行くのが筋なんだけど。間に合う気がしねえだろ、あれじゃあ」
あーあ、せっかく生で見れると思ったのに秋華賞、などと神音さんは溜息をつく。
僕はまだ、理解できない。
「相手さん、先生の顔は知らないらしくてさ。こりゃ幸い……ああ、もしかして、お前の強運のお陰かな? これも」
そこで漸く、一つの可能性に思い当たった。
「……神音さん、まさか」
「そのまさかだよ」
ぞっとして身体が強張る。いくら何でも馬鹿げている。
「僕が先生の代わりなんて!」
「お前が一番適任じゃねーか」
神音さんは携帯電話をいじり始めた。
「マスターのほうが良いに決まってます!」
「さくちゃん、先生探すのに忙しそうだもん。やくちゃんはこういうの担当じゃないし、高野くんはいないし」
流しも買えばよかったな、とぼやく彼の腕に、僕は縋り付いた。
「だからって、僕、僕は、無理ですよ……! ツイてるなんて、こんなの、偶然じゃないですか! 麻雀は僕は、初心者で、だって、まともに打ったことすら……!」
「お前、こっそりゲームで結構やってるだろ」
ひゅ、と自分の喉が鳴った。漂う煙はすっかり慣れたいつもの彼の匂いがして、溶ける様に消える。
「頼むよ、なるみん。俺のこと助けると思ってさ」
へらへらとだらしなく笑いかけられて、気が遠くなる。眩む世界のさなか、僕はふと思い出す。
この人達はいつもこうだった。助けたり助けられたり、互いに互いが手を貸すことを、当たり前とすら思わないほど当たり前にやっている。凭れかかって寄りかかりあうことに違和感がない。今だって神音さんは、根っこでは僕に『助けてもらう』なんて感覚は、微塵もないのだ。
「心配しなくても死んだりしねえよ、卓にゃ俺も入るし、言うほど危ない件でもないぜ。お前が前にやってたことよかずっとお遊びだ」
僕は黙り込んで、手の中の馬券に目を落とした。心臓は不穏なまでにうるさく鳴っている。恐怖でぞわぞわと落ち着かない肌の内に、僕は小さな喜びを感じていた。
あの寄りかかりあいの中に、いつのまにか、僕はいた。それはとても恐ろしくて、嬉しかった。
タクシーは人気のない見知らぬ路地を走っていた。
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