第二更 シナントロープの巣窟





『この麻雀で勝ったやつの言うことなんでも一つ聞く』なんてルールを突然言い出したのは、確か神音さんだ。


「いいぞ」と初めに言ったのは先生──経緯は誰にもわからないけれど、僕たちは安田全のことをそう呼んでいる──で、それを嫌がりながらも、実行の流れを作ったのが、やくさん。薬師寺一真という人は、冗談か本気か、嘘か本当か、判別つかないことを言うのが上手な人だった。


「最ッ悪の賭け麻雀だよ。オレやんないから! 出来レースとかマジで御免だもん。神音ちゃんとせんせーと、あと誰? さくちゃんやる?」

声をかけられたマスター、つまりこの雀荘の主である磐長朔弥が、振り返って優しく微笑む。

「そうだね……たまには混ざろうかな。最近ちょっと腕が鈍ってるしね」

「マジ? じゃああと一人?」

やくさんが僕を見る。

「え、いや、僕は……まだみなさんの見て、勉強します」

「謙虚だねえ成海ちゃん……もうオレより上手いんじゃないの、キミ」

僕の肩をポンポンと叩くやくさんは、こんな風にするりとパーソナルスペースに入り込むのも上手だった。

「なら高野ちゃんね」

「えっ?」

両手に黒いゴミ袋を抱えて歩く高野が、やくさんの声に足を止めた。

「なんですか?」

「麻雀だよ麻雀、君好きでしょ? 早くそれ捨ててきて!」

「え~? わかりましたけど……」

高野がガラスの扉を背中で開けて出ていく。僕は苦笑して、ローテーブルから雀卓の横に灰皿を移した。


「成海くんもやればいいのに」

ねっとりと笑いながら、その灰皿に神音さんが煙草を押し付ける。濁った血の色の目をしたこの人は、京都でも有名なパチンコ屋『マリアライト』のオーナー——とは名ばかりで、ここらを取り仕切る極道組織の組員である。

「まだ見てる、とか言っちゃってさ。能ある鷹は何とやら、じゃねぇの?」

「もう……やめてくださいよ、神音さん。はじめたてですよ、僕」

神音さんは長い足を邪魔そうに組んだ。

「ハジメタテって。ここで働き始めて半年くらい経つだろ。いい加減実戦で学びなさいな。見てるだけじゃわからねえこともあるんだぜ」

ひらひらと揺れる彼の右手を見て、僕は曖昧に微笑んだ。


 半年。あの夜から月日は流れて、京都は秋に染まり始めている。

 あの、春の夜。彼らに助けられて、僕は生き延びてしまった。何も持たない、何者でもないただの哀原成海になった。


 高野を庇ってできた銃創は、それほど深くはなく、僕は数日で退院した。そしてまだギプスの足を引き摺っていた神音さんに、流れるようにここに連れてこられた。

 雀荘すずめ。マスターが父から譲り受けたのだというその場所は、それまでずっと孤独だった僕にとって、見たこともない不思議な温かさを持っていた。


「家も金もないんだろ? このままじゃどうせ野垂れ死ぬか、また暗黒世界に逆戻りだぜ、お前」

冷たい言葉面とは裏腹に、神音さんの声は優しかった。

「知ってっか? スズメってのは、群れてるように見えて実は群れじゃねーんだよ。リーダーもいないし、互いの利益のために集まったり離れたり、まあなんだ、自由な奴らなんだぜ。そんだけ生きるのに必死とも言えるけど。というわけで、今日から君も“すずめ”の愉快な仲間入りだ、成海くん。シナントロープの巣窟にようこそ」

彼の言っていることはよくわからなかったけれど、でも、とても嬉しかったことだけは、よく覚えている。


 誰かに歓迎されたのは、久しぶりだった。


 さすがにまさかそのまま住み込みで働く手筈まで整えられているとは思わなかったので、最初に聞いた時は驚いたが。


「ええ~っ、負けたら言うこと聞くんですかあ!」

高野の情けない悲鳴が聞こえて、現実に引き戻される。やくさんが高野を無理矢理座らせようとして、珍しくマスターまでその腕を引いている。神音さんはいたずらな子供みたいに笑っていて、先生が煙草を咥えた口の端を上げた。思わず僕も笑う。


 雀荘すずめの、日常だった。


   *


 勝ったのは、言い出しっぺの神音さんだった。

「イカサマしたでしょ」

とやくさんは言ったけれど、マスターの配牌が毎回いまいちだったのに加え、神音さんは逆にかなり運が良かった。先生は終盤とても眠そうにしていたし、高野はいつも通りのごく平凡な打ち方だったから、たぶんイカサマではない。


「競馬行くぞお前ら」

立ち上がった神音さんは、思っていたよりずっと可愛らしい命令を下した。

「秋華賞だよ秋華賞! お前ら全員連れて行くからな」

「えーまじでぇ? オレもなのぉ?」

やくさんは嫌そうな声を出したけれど、顔は笑っている。

「人すごい多いじゃん。この人絶対はぐれるよ」

そう続け、肘を先生の脇腹に、ぐりぐりと押し付ける。半ば眠っていた先生が唸り声を発した。

「やめろ……」

「いいぞー秋華賞。成海くん、競馬行ったことある?」

突然神音さんに聞かれたので、僕は驚いて目を見開いた。

「いえ。ないです」

「なら、びっくりするかもね。おれも初めて行った時、結構感動したんだよ」

にっこりとマスターが微笑んだ。

「懐かしいなあ。それも神音に連れて行かれたんだよね。夏だったからあんまり人はいなかったけど」

「いつの話してんだよ、さくちゃん。まあでも、成海くん、ぜってー気にいるぜ。な、高野くん」

「あー、そうですね!」

ボロ負けした高野が、嬉しそうに笑った。

「競馬俺も久しぶりなんで、楽しみです」

朗らかに言って、高野は立ち上がった。

「予定、空けておきますね!」

「お前は予定が入る予定もないだろ」

コーヒーカップを片付け始めた高野に、神音さんの一言が刺さって、またみんなで笑った。


   *


 京都競馬場の有料観客席で、神音さんは競馬新聞を広げていた。

「女心と秋の空。秋華は一筋縄じゃ行かねえからな」

とか何とか言って、今行われているレースには目もくれず、分析を続けている。僕はその隣に座って、なんとはなしにそれを見ていた。

 長い指がくるくると赤ペンを回す。いつもと同じ高そうなスーツに不釣り合いなキャップを被っている(どうも競走馬のグッズらしい)。そのうえだらしなく背を凭れて座っているのに、何故かサマになってしまう。そういう人だった。


「俺、五番が穴だと思うんですけど」

神音さんの向こうに座った高野が、新聞を覗き込んで言った。

「坂を制するものがレースを制する、でしょ。血統的にも……」

金色の瞳がいつになく輝いている。賭け事が好きなのは相変わらずだ。

 それにしても、パーカーにジーパンでラフな装いの高野と、スーツにキャップの神音さんが会話している様子は、傍から見れば謎の状況だろう。年齢も所属も明らかに違う、関係性の読めない二人が、並んで会話をしている。

 それでもさほど違和感を発していないのは、ここが競馬場だからだろうか。そのまま二人は、なにやら用語を交えつつ予想談義を始めてしまった。


「はい成海、どうぞ」

意味もわからずぼんやり聞いていると、横からマスターが紙コップのジュースを差し出してくれた。

「あ、お帰りなさいマスター。ありがとうございます」

買出しに行っていたマスターとやくさんが、両手に袋を下げて戻ってきた。ジャンクフードの匂いがほんのり漂ってくる。

「ほら、おじさん達、牛丼! もつ煮! 焼き鳥! ビール!」

「おお~」

横でやくさんが袋から出した食べ物を二人に与えている。耳に光るピアスはいつもより少し派手で、シルバーがきらきら光っている。

「あれ? 全は?」

たこ焼きを出して僕に手渡しつつ、マスターが尋ねる。

「さっきトイレ行くっつってたけど」

焼き鳥を咥えたまま、神音さんが答えた。マスターは「あ、そう?」と言って焼きそばも取り出す。


「好きなの食べなね」

微笑んで僕を見るマスターに、兄がいたらこんな感じなのかもしれない、と思う。グレーのカーディガンを腕まくりして、膝の上の焼きそばを開けている彼に、僕はぱきりと割り箸を割って渡した。

「ありがとう。レース見た?」

「はい、なんとなく。けどここからだと、ちょっと遠いですね」

窓越しに馬場を見下ろす形のこの席は、居心地はいいけれど思っていたより小綺麗で、なんだか少し落ち着かない。

「食べ終わったら降りてみようか」

焼きそばを口に運びつつ、壁にかかった液晶を眺めながら、マスターが呟く。僕が頷くと、高野がひょこっと顔を出してきた。

「成海! パドック行こうよ。今なら前のほう取れるかも」

「パドック?」

身を乗り出した高野の手から、神音さんがもつ煮を取り上げた。

「レース前に、馬の様子見せてくれるところ。最後はやっぱこの目で見てから決めなきゃ」

熱く語る高野を見て、神音さんはにやにやしながら、焼き鳥の串でもつ煮を食べ始めた。

「俺はテレビで見とくわ。やくちゃんは?」

「オレも留守番。さっきこの後のレース買ったから」

ちゃっかり馬券を買っていたらしいやくさんは、ちゃっかりプラカップのワインを片手に、一人だけミックスナッツを食べていた。

「じゃあマスター、行きましょう!」

高野の呼びかけに、マスターは曖昧に返事をした。手の中のパックの焼きそばは、丁寧に紅生姜を避けてある。

「全、なかなか帰ってこないけど」

大仰な溜息が向こうから聞こえた。

「まぁーた迷子だよ。リードでも付けたほうがいいんじゃないの?」

やくさんの端正な横顔が無残に崩れるのを、僕は苦笑いで見ていた。


 こうして揃って出かけるのは、これが初めてではない。この半年の間に、僕はもう何度もこんな風に、行ったこともない場所に連れ出してもらった。まるでそれが当たり前みたいに。

 そして……その中で、先生がはぐれたことは、一度や二度ではない。


「おれ、ちょっと見てこようかなあ……」

紅生姜を残して焼きそばを食べ終えたマスターが、割り箸をまとめて半分に折った(簡単に折ったけれど、相当力の要る事だと音で容易にわかる。なお、以前何か武道をしているのか質問したところ、「こういう職業だからちょっとだけはね」と返されたことがある。本当にちょっとだけなのかは怪しいところだ)。僕の僅かな動揺に気付くことなく、彼はそれをパックに入れて丁寧に輪ゴムをかける。

「あの、僕。一緒に行きます」

食べかけのたこ焼きに蓋をすると、マスターが微笑んだ。

「いいよ、成海。高野と一緒に馬見てきな」

ぽん、と頭の上に手が置かれる。ここまで甘やかされてしまうと、正直もはや兄というより親だ。少し照れる僕をよそに、マスターは立ち上がり、ゴミを片手に行ってしまった。


「パドック行きながら探してみようか、成海」

紙コップのビールを飲み干して、高野が声をかけてきた。その向こうでやくさんが携帯電話を触っている(高級ブランドのストラップが揺れている)。

「いつもン事だけど、電話は全く出ないよ。何のために持ってんだっつの」

「ウチが携帯代払ってんだけどなァ」

笑いながら神音さんが焼き鳥の串を噛み始め、やくさんがそれを取り上げた。

「二人、行ってくる? 気を付けてね。電話ちゃんと気にしといて。あと、ゴミついでに捨ててきて。はい」

やくさんは手際良くゴミをまとめ、渡された袋を高野が持ち、僕達は立ち上がった。


「あ、なるなる〜」

「……? はい」

神音さんが僕を呼び止める。……彼は最近、僕を多様なあだ名で呼ぶのにハマっている。

「なんか数字言って」

「え……? っと……」

「一から十二までで」

「……じゃあ、十二?」

親指と人差し指で丸を作った神音さんに首を傾げつつ、僕は高野の後を追った。

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