『GambleЯ』第二部
宮谷 空馬
第一更 少し色褪せた
すべてを賭ける価値は、そこにあるだろうか。
愛、友情、富。愉悦と快楽。日常。自己満足。希望。救済。幸福。
渇きを癒すための篝火。
燃やさなければ。
命を。
晩冬の京都の夜は長く、雨がしとどに京都を濡らしていた。
街灯と雨粒を忌むように彼は──哀原成海は、フードを深く被り直した。同じように黒のフードを被った背の高い青年が、くゆる煙のように隣に並ぶ。金色の瞳は、月に似ていた。
「高野……」
成海に呼ばれ、高野八千は静かに頷く。
二人の視線の先で、黒い傘が開いていた。
午前二時半に見るには、あまりに幼気な小さい靴。黒い髪の毛先が、雨に濡れる。
「……助けて」
微かな声が、二人の鼓膜を揺らす。
「私を、助けてください。——私のママみたいに」
*
リノリウムの床に、雨雫が滴る。部屋はコーヒーの匂いで満たされていた。
「ミルクと砂糖は?」
ソファに座った少女は顔を上げる。深緑の目が、彼女を優しく見つめていた。小さく頷くと、持っていたマグカップをそのまま手渡される。答える前から入れられていたのだろう。両手で包むように持ち、ゆっくりと口をつける。
「おかわりもあるからね」
高野と成海から《マスター》と呼ばれるその人は、ハーフアップにした肩ほどの長さの茶髪を揺らし、立ち去る。その背中を見ている少女に、成海が声をかけた。
「名前、聞いてもいいかな」
澱んだ紅色の目が、彼に向いた。
「あき」
「……あき、ちゃん?」
「ろくはら、あき」
成海は微笑む。
「……そっか、なんだか不思議な気分だな。僕たちは、名前も知らない君のこと……時々みんなで話してたんだ。今どうしてるかなって」
少女は少し目を見開いた。
「私のこと、知ってるんですか……?」
「……もちろん」
成海は、雀卓に肘をつく高野を見た。虚ろな目で窓の外を眺める彼の思考は読めない。
「会うのは初めてだけど、ずっと前から知ってるよ。……今いくつ?」
「……九歳」
「九……なら、あれから十年経つのか。そうか……」
成海は、少女の肩越しに自らの記憶を見つめた。扉の向こう、懐かしい景色、牌の音と笑い声、温かいコーヒーとよく知った煙草の香り、それらが詰まったあの部屋。幻のように立ち消えて、今はただ真新しい線香の匂いだけが漂う場所。
「……君、麻雀はできる?」
成海の言葉に、少女の、凝固した血のような瞳が、鈍く光った。
*
「初めて会った時の君のお母さんは、まるで女神みたいだった」
牌と牌がぶつかり合う音の合間に、成海は呟く。
「偶然——いや、まるで奇跡みたいに、出会ったんだ。一度しか話すことはできなかったけれど、本当に、芯の強い人だった。すぐにわかったよ。羽が生えてるみたいに身軽なのに、しっかり自分の足で立っていた」
対面に座った少女を伺うと、真っ直ぐに、成海を見ている。
「……十年前の夜、僕は路地裏で君のお母さんに会った。その頃の僕は、その日一日を生きるのに必死で、周りなんて全然見えていなくて。良くないことをして、悪い人にお金をもらって暮らしてたんだ。……良くないことばかりしてたから、僕はいろんなものから逃げるみたいに暮らしてた。それで少し……」
言葉を切り、からん、とサイコロを振る。牌の山に、成海は手を伸ばした。隣に座る高野がサイコロを回収する。出目は二つとも六だった。
「怪我しちゃったんだ。だから路地裏に隠れて休んでいたら、突然君のお母さんが現れた。すごくびっくりして、……あんまりきれいだったから」
成海はそう言ってはにかんだ。黙って見つめる少女の前に、高野が山から牌を取り、置いた。積まれた二つの牌に、躊躇わず小さな手が触れた。こと、とそれを立てる。
「毛布を貸してくれた。……それと、傷の手当もしてもらった。君のお母さんがいなかったら、僕、あのまま路地裏で死んじゃってたかもしれない」
成海と高野が牌を並べていく。彼女も真似て十三個の牌を目の前に並べ上げた。知らない記号と絵柄、けれどどこか懐かしく感じて、少女は、それを思うままに並べ替えた。
「君のお母さんは、そのとき、悪い人から追われてたんだ。君は……まだ、お母さんのおなかにいた」
一つ、表を向けて牌を置く。少女は成海の動きをひたと見据える。隣の高野が山から一つ牌を取り、並べ、その中から一つ取って、成海と同じように倒して置いた。
「僕は……君のお母さんと僕は、偶然、同じ組織に追われていた。それで一緒に助けてもらった。ここにいた人達が、救ってくれたんだ」
少女は、牌の山に手を伸ばす。ひとつ、その小さな手に、掴む。
「……ここに、いた?」
握りしめたまま、彼女は彼の目を見た。
「……そう。ここにいた、五人の人達」
成海は手牌の中の六筒を撫でた。指先を滑らせて、その隣の一索に触れる。
「君も、助けてほしいんだね?」
優しい声に、しかし少女は黙って手牌を見つめていた。
「教えてほしい。僕達は、君を何から救えばいい?」
彼女は牌を一つ取り、手牌の前に置いた。絵のない白い牌が現れる。
「……見つかったって、ママは言ってました」
少女の睫毛が揺れる。彼女の母の横顔を、成海は思い出していた。
「知られちゃいけない人たちに、私がいるのがばれちゃったって。それで、ママは私を車に乗せて、この人たちに、助けてって言いなさいって」
彼女がポケットから取り出したのは、少し色褪せた写真だった。成海には何が写っているのか見えなかったが、隣の高野が僅かに目を見開いたのに気付いた。
「私は、あなたたちが昔ママを助けてくれたことを、何度もママから聞いてました。だから、あそこで待っていました」
雀荘すずめの前に立っていた少女の姿を、成海は思い返す。
「……そっか。それで、今お母さんは?」
「……ママは」
言い淀んだ少女が、俯いて写真を見つめた。歳のわりに大人びている彼女が、その一瞬は、まるで今にも泣き出しそうな赤子のようだった。
「わかりません」
次に顔を上げたときは、無表情に戻っていた。
成海は少しだけ自分の発言を後悔した。けれどすぐに微笑みかけ、そうだね、と言った。
成海は山から牌を一つ取る。現れた西の字を、親指で擦る。
「……もちろん、力になるよ。僕たちなら君を、助けてあげられるかもしれない」
それを河に置いて、成海は高野に目配せをした。高野は黙ったまま横目でそれを見て、六索を切る。
「僕達を、信じてくれる?」
成海に真っ直ぐ見つめられた少女は、小さく頷く。躊躇いがちに、その目が伏せられる。不安がにじむそのしぐさを見て成海は、むしろ安心したように微笑んだ。こんな状況で、こんな境遇の彼女が、あっさりと信頼してくるほうがむしろ異常だ。
「……あきちゃん、君は僕達のことを、お母さんから聞いてたって言ってたね」
少女は頷く。今度はしっかりと。
「君はお母さんの話でしか僕達のことを知らないんだから、すぐに信じろなんて言ったって、難しいよね」
黙ったまま、少女が手の中の写真に目を落とす。
「だから……僕達のこれまでのことを、君に話そうと思う」
顔を上げた少女の目が、月明かりでわずかに光る。それは、いつか成海が見た彼女の母の瞳に、よく似ていた。
「君が僕の話を聞いて、僕達のことを信用してもいいと思えたら——その時に、君の話をしてくれたらいいから」
そう言って、成海は目を閉じた。暗い瞼の裏に光を灯して、五人の背中を描く。
「……マスター、神音さん、やくさん、先生、高野」
その背中に、成海は呼び掛ける。
「僕の大好きな人達の話を、してもいいかな」
答える代わりに、少女は牌を一つ、置いた。
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