13 その幸せは何の味?
『プロポーズされました୨୧⑅*。』
「……っ!」
全ての文字を読み終わる前に吐き気を催し、トイレへと駆け込んだ。便器へ向かい合い逆流してきたものを吐き出すように口を開くが何も出ない。むせるように何度も咳き込んだが、喉が熱いだけで何も出ない。出てくるのは、喉を刺激する酸っぱさを潜り抜けてきた酸素濃度が高い気体。
透明の唾だけが、トイレの水溜りに溶けていく。咳をした反動か涙が出てくる。いやこれは悲しみの涙なのか。つられるように鼻水も出てくる。
吐しゃ物はない。身体に回らなかった酸素は出ていく。
頭も喉も心も全部痛い。
どうして。どうしてどうしてどうして、どうして。
どうしてこんな悪夢みたいなことが起こっているの?
まだ高校を卒業してから、一ヶ月も経っていないじゃないか。まだ瑠夢は大学に入学したばかりで、しかも18歳だ。何を考えているの?
相手はあの男だろうか。それなら付き合って一年も経っていない。
現役大学生で一年も交際をしていない瑠夢に、……プロポーズ?
今まで全寮制だったため土日しか会っていない相手に? どう見積もっても一年の3分の1未満の月日しか共にしていない相手に?
「どうして……」
頭を巡らせる思いを口にも出す。
口に出すことで急に現実味を帯びたのか、頭へ全ての水分が上って来たかのように目、鼻からさっきとは比べものにならないほどの水分が溢れだす。
胸が苦しくて空気を身体へ取り込むことはできない。浅い呼吸を繰り返すうちに呼吸困難に陥っていく。落ち着かせるために両手を気管へ持っていく。片手に持っていたスマホをトイレの床へと落とした。
『Will you marry me?』と書かれたデザートプレートを両手で添え、この上なく幸せそうに笑う瑠夢の姿だけが画面に映っていた。
その顔を向けるのは、私だけでいてほしかった。
体内の水分を全て絞り出したかと思うくらいに泣いた。
大学へ進学して一人暮らしを始めて正解だった。近くに親がいたらおかしくなったと心配されるくらいに全ての感情を発散させるように、泣き、叫び、嘆いた。
そのおかげか、呼吸も整い、吐き気もない。
食欲もなければ、生きる気力もなくなった。
ベッドに横になり、ぼーっと天井を眺めている。
さっきまで何をしようとしていたんだっけ。
久しぶりに瑠夢へ連絡を取ろうと考えてたんだっけ?
卒業して3月のうちは連絡を取り合っていたけど、4月に入り慣れない大学生活にバタバタしているうちに連絡が疎かになっていた。やっと新生活が落ち着き、久々に会う約束を取り付けようとしていたんだっけ? 忘れちゃった。
とりあえず瑠夢のインスタで最近の彼女の様子を見てから、何か行動をしようとしていたのだと思う。今となってはどうしてもいい話だ。
頭では分かっていた。いずれ瑠夢も誰かと結婚をする日が来るって。
何度もイメトレをした。もし結婚が決まったと報告をされたらどんな風に祝福しようか。もちろん心の底から喜ぶことなんてできない。だけど友達の幸せを祝えない友達とは今後付き合っていきたくないだろう。だからショックを受ける覚悟を整えながら、瑠夢が喜びそうな祝福を考えていた。
どんなに不幸の準備をしていても、無駄だったって今日初めて知った。
ラインを開き、トーク履歴のピン留めして一番上に来ていた彼女のアイコンをタップする。最後のメッセージはおやすみのスタンプ。
スクロールをして過去のやり取りを見返した。
「菜月がいない学校は寂しいよ~」
「今回の期間限定ドリンク最高だった。一緒に飲みに行こう」
「すごく可愛いチーク買ったよ! 誕生日にプレゼントするから、これ買わないでね。お揃いにしよ」
「朝起きて菜月がいないの、変な感じ!笑」
男の影なんて一つも見えない会話。
これからここに、私と瑠夢だけの会話だったところに、瑠夢が大切にしている人の話が載ってくるのだろうか。
近いうちに瑠夢から直接報告が来るのだろうか。
「…………っ」
尽きたと思った水分はまだ残っていたようだ。
スマホの画面が霞みはじめた。ただ、興奮はしていないようで呼吸は正常だ。
ホームへ行き、歯車ボタンをタップする。
アカウントを押し少しスクロールをしたところに赤文字のボタンがある。
涙がゆっくりと頬を伝う感覚を感じながら、私はその文字を選択した。
何もする気になれない日はその日で終わらない。
昨日は何かを食べる気分にならずに、水だけを飲んで一日を過ごした。そのつけが回って来たのか。起きてからしばらくしても頭はぼーっとし続けていた。
変わらずごはんを食べる気分にもなれず、しかし頭も回らなければ動く体力もない。
選択したわけでもなく再びベッドへと寝転んだ。今日も天井を見つめるだけの日。
大学は一ヶ月休んだ。
* * *
一ヶ月経ち、ようやく動く力が湧いてきた。失恋は時間が解決してくれるというのは本当だったようだ。
食事も病み始めて4日目くらいから限界を感じ、水だけの生活からゼリー状の栄養ドリンクへ、そして今ではおかゆくらいまで食べられる程度には回復した。10口を食べたところで胸がいっぱいで食べられなくなるが、大きな成長であろう。
大学も数時間ではあるが復帰した。
たった一ヶ月の休みではあったが、休む前に一緒に行動していた友達には、他の友達ができていた。当たり前だ。私が彼女と過ごしたのはたった二週間。お互い思い入れはなかっただろう。一人で行動するのは寂しいし、連絡もなく突然いなくなった友達を待っているはずがない。
彼女には申し訳ないことをしたなと思いつつも、新しい友達と仲良くやっていることに安心した。
私は一人でも問題ない。だって私には瑠夢がいるから。
……あ。
つい今までと同じ感覚で考えてしまっていた。
瑠夢は、
他
の
男
と
幸
せ に な
っ た ん
だ
っ け ?
脳がぐしゃぐしゃにかき混ぜられる感覚。ぐるぐるとして吐き気がする。視界が歪む。一ヶ月の時間をかけて忘れられたと思っていたのに。
瑠夢はまだ私の中にいた。無意識のうちに心の中に住み着いていた。
このまま瑠夢を、 。
考えたくないことが頭をよぎった。気づかないふりをして蓋をした。
それから半年が過ぎた。
相変わらず突発的に感情をかき乱されては吐き気に襲われたり、道端で泣いたり、少しだけ自分に当たったりもした。感情に振り回されている自分へうんざりしてきて、ずっと受け入れて来なかった考えを認めることにした。
このまま瑠夢を想い続けている私は幸せになれない。
もう瑠夢を好きでいるのはやめよう。
大好きでした。楽しい時間をありがとう。
* * *
一年生後期は環境問題と植物を扱う授業を多めに履修した。
生物……生殖を学ぶために入学した生物学科であったが、学ぶ必要もなくなったため
前期は一ヶ月+αの自主休講があったため、沢山単位を落としていた。植物はその埋め合わせのためになんとなく受講した。
なんで植物なのか。これはなんとなくだ。
履修科目を検討している際に、ふとピオニーの香りを思い出したから。
だからなんとなく履修した。
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