14 ふわふわ
一定のリズムで刻まれるテンキーの音が今日は爽快に聞こえる。
いつもは眩しくてうんざりするお昼を過ぎの日差しも特別な光に感じる。
水曜日。引っ越しの手続きが漏れていた、なんて適当な理由で半休を取得し午後に出社をした。当日でありながらも許してくれた会社の心の広さには感謝しかない。
もちろん特別な用事なんてなかった。
昨晩(日付は変わっていたかもしれない)の出来事で頭がいっぱいいっぱいになってしまい、仕事どころではなかったため出社を遅らせた。
午後に出社して思う。一日休みにしてしまえば良かったと。
思い返す必要もない。記憶の引き出しは開けっ放しになっていて、気を抜けば口にしてしまいそうなくらいに頭の中は瑠夢のことでいっぱいになっていた。他のことを考えるスペースを与えないくらいに頭の中は瑠夢と昨日の出来事で埋め尽くされている。
瑠夢の手が私に触れている感覚。声への吐息が耳に残っている感覚。
夏の始まりで涼しさが残る夜に熱を帯び汗ばんだ身体。
昨日の夜の感覚が続いているような、まだ部屋のベッドにいるような気持ちに陥っていた。
その感覚にドキドキしては頭の中がふわふわとする。
一度は諦めたつもりだったが、彼女への気持ちは一切なくなっていなかった。仕舞い込んでいたいただけでずっと私の中に残っていたんだ。
瑠夢、大好き。
今日も定時で上がれるだろうか。上がれないと困る。というか、こんなモチベーションの中で残業をしても給与泥棒になるだけだ。今日のノルマが終わっても終わらなくても定時には上がろう。……今日のノルマはどうしようか。頭の中が瑠夢でいっぱいだから他に何も考えられない。
「とりあえず、ラインしよう」
誰にも聞こえないような小声で呟き、スマホをいじる。もちろん相手は瑠夢だ。
昨晩、寝るのが遅かったせいか私が出社するまでに瑠夢は起きて来なかった。9時に起きたことに対して全然眠れなかったと漏らしていたくらいだから普段は12時まで、と考えると今日は13時くらいまで寝ているのかもしれない。わざわざ出発を知らせるために瑠夢を起こすのもためらい、今日も朝の挨拶を交わさずじまいだ。
だからラインで挨拶を送る。瑠夢に雰囲気の似たうさぎのスタンプと共に、『寝顔可愛いかった』とメッセージを送る。既読は付かない、まだ起きていないようだ。
まだ寝ているのか、と私のベッドで眠る彼女のことを想像する。ベッドを買うと言っていたけど、それまではずっと私と一緒に寝てくれるのだろうか?
毎晩、昨日のようなことをするのだろうか。……あ、考えたらまた頭がふわふわしてきた。仕事のことなんて考えられない。絶対に欠勤するのが正解だったな。
スマホを机に置いて、やるぞ、と上辺だけの決心をしてPCへと向き合う。するとモニター越しに岡原さんから声を掛けられた。
「今日は楽しそうですね」
「……にやけてた?」
感情は自身の内に秘めていたつもりであったが、指摘をされると急に不安になる。 しかしこれが墓穴を掘ったようで「にやけるようなことがあったんですか?」と岡原さんは目を輝かせて質問してくる。楽しそうとか言うから、と適当に理由を付けて発言を撤回する。仲が良い後輩とは言え、彼女に昨晩の話はできない。
「半休使ったから、いつもより気分が良かっただけ」
「あーー……、分かる」
なんとか誤魔化せただろうか。彼女は納得するように腕を組み共感する。
そしてこの話題には興味がなくなったようで、次の話題へと移行した。
「あ。ストーカーはどうなったんですか?」
「何の話?」
「昨日言っていたじゃないですか。一緒に住む相手が、実は昔のストーカーだった! みたいな話」
「してないよ」
「しました。それはキモいなって強く印象に残ってますから」
そんな話をしただろうか、と瑠夢で幸せいっぱいな頭を働かせる。折角瑠夢だらけなのにノイズが入った。
そういえば瑠夢が私の収集癖を歓迎したことに引いて、他人に意見を求めたんだっけ? 瑠夢の寛大な心を有難く思わないなんて昨日の私は一体どうしてしまっていたんだ。
「あれは例え話だよ。友達の話」
「友達の話って振るときって大体――」
岡原さんの発言中にブブッと低い音と共にマウスを持った手に振動が伝わる。
「……あ」
瑠夢からラインが返って来た。
話し中ではあったが、スマホを手に取り内容を確認する。
『おはよ~。菜月のお布団気持ちよすぎて爆睡しちゃったよ』
やっぱり13時を過ぎて起床した。マイペースに起きるところも可愛いな。
すかさず返信する。
『寝坊しすぎ。でも気に入ってもらえてよかった』
『今日も一緒に寝ていい?』
『もちろん』
『ありがとう! 今日は何食べたい?』
『オムハヤシって作れる? でも瑠夢が作ってくれるなら何でも食べたい』
『作れるよ、すごいでしょ?』
『すごい。可愛くて料理も上手いなんて天才』
『ありがとう。今日の帰り、食材の買い出し付き合って?』
ということは今日も帰り道から一緒ということだろうか。また二人で並んで家へと向かうのか。尚更早く帰りたくなってきた。
「じー……」
まずい。話の途中でラインに夢中になっていた。話を放置された岡原さんはじとーとした目で私を見る。ごめんね、と一言と伝えると、別にそれはいいですけど。と別の用件があることを匂わせる。
「やっぱり楽しそう。彼氏だ」
「そうじゃないけど」
岡原さんに声を掛けられたことで返せなかった瑠夢への返信『行く!』を送信し、再び彼女の方へと顔を向ける。
「でも、そうかも」
私の発言にびっくりしたのか。岡原さんは目と口を大きく開き「え!?!?!?」と部屋全体に響き渡らせた。
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