第11話 再会と覚醒 後

「ああ腹痛い⋯⋯何か変なもの食べたかな」


 急な腹痛によって教室を飛び出した俺は、ひとりトイレで悪戦苦闘していた。

 途中、何やら教員に召集がかけられていたのを確認して、何がなにやらと首を傾げた。

 昨夜に食べたプリンの消費期限を何とか頭に思い起こそうとしながら、ひとり呻き声を出す。

 苦行の末にトイレから出ると、なぜか辺りが静まり返っている。

 それに教室にはすでに誰もいない。

 トイレが実は異次元に繋がっていて、神隠しにでもあったのだろうか。

 そんな馬鹿なことを考えていると、国語教師の岡田がやってきた。


「三椏、お前も早く帰れよ」


 早足ですれ違いながら、岡田はそう言った。

 自分がトイレに行っている間に一体何があったというのか。帰っていいなら有難く帰らせてもらうだけだ。

 踊る心を抑えながら帰り支度を済ませた。

 靴を履き替えて瞳美の姿を探したが、どこにも見当たらない。


「先に帰ったか⋯⋯まあ仕方ない」


 自宅に向かって足を進めると、周辺の様子がおかしな事に気がついた。


「みんな何してるんだ⋯⋯」


 いつもならこの時間、近隣住民の姿が見えるはずだが、周りには俺と同じく下校中の生徒数人しか見えない。

 いつもはこの時間、教室の窓から見える犬を散歩させているどこかのおじさんの姿も、忙しなく走る郵便局の職員も居ない。

 それと頻繁に自宅待機の指示がスピーカーから聞こえるのも気になった。

 ライオンか凶悪犯罪者でもどこかにいるのか、だがだとすると家に返すより、学校にいる方が安全だろう。

 そんなことを考えていると電話が鳴った。

 画面を確認すると、公衆電話から掛かっていた。


「もしもし」


 若干、警戒心を含ませた第一声を放ち、立ち止まった。

 電波がジャックされている可能性も、俺が宝くじを当てるのと同じくらいの可能性であるかもしれない。


「もしもしお兄ちゃん」

「お、なんだ愛する妹じゃないか」


 電話の声の主が妹だと分かると、警戒を解いた。


「そういうのいいから」

「ごめんごめん。で、何の用でどこから掛けてるんだ」


 電話の向こうで、妹が怒っているところを想像しながら尋ねる。

 まあ、怒っていても可愛いだろう。


「学校だよ。先生が不発弾が見つかったから今から帰れっていうの。それで私鍵忘れちゃって」

「それなら俺も今帰ってるから大丈夫だよ。ていうか不発弾ってなに」

「あのねお兄ちゃん。不発弾っていうのは戦時中の」


 俺はそこまで馬鹿じゃないというのに酷い妹だ。


「いやいやそうじゃない。帰るように言われたから、今帰ってるけどそんなこと一言も聞いてないぞ」

「そうなの? なんで?」

「うんこしてたから」

「あ、そう」

「で、その不発弾ってどこにあるんだ」

「雨宮高校の近くって言ってたけど見に行くの? ていうか放送の車走ってない?」


 そう言われて確認すると、たしかに大通りの方にそれらしい街宣車が走ってる。

 だが音はあまり聞こえない。

 というより放送と重なって聞こえにくい。


「まあいいや。ひとりで帰れるか?」

「馬鹿にしないでよね、馬鹿」


 妹のその一言が、オレの胸に響いた。


「もう1回言って?」

「言わないから」

「兄は悲しいぞ」

「はいはい、じゃあ私も今から帰るから鍵お願いね」

「わかった」


 電話が切れると、俺はまた歩き出した。

 家の前に着き、鍵を取り出すため鞄を漁っていると、隣の家の扉が開いた。


「あれ、瞳美」


 扉からはジャージ姿の瞳美が現れ、俺は首を傾げた。


「あれ瞳美、どこ行くんだ。今は不発弾が」

「ごめん寿磨。家の中で隠れてて」


 瞳美は家を飛び出し、帰ってきた方向と反対方向に走り出した。


「どうしたんだ。隠れてって何から?」


 慌てて飛び出した瞳美の方向には雨宮高校があり、ちょうど不発弾が見つかったと言われている方向だ。

 瞳美も一般的な女子だ。

 だが一般的な女子が不発弾なんて見たがるものなのだろうか。それもジャージに着替えてまで。

 知らない間に、瞳美はアクティブなミーハーになっていたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、瞳美が走っていった方から華奈が歩いてやってきた。

 ランドセルを背負いながら華奈はオレを見つけると走り出し、目の前にやってきた。


「おかえり華奈」

「ただいまお兄ちゃん、鍵は?」


 鞄から鍵を取り出して華奈に手渡した。


「さっきお姉ちゃんが走っていってたけど、お兄ちゃんも不発弾見に行くの?」

「いや、俺は行かない。妹を置いて行くわけないだろ」


 そう言いながら俺は華奈の頭を撫でた。

 普段は俺を煙たく感じながらも、華奈は撫でられたまま動かない。

 すると、華奈の目が俺の奥の何かに注目して固まっていた。


「お兄ちゃん⋯⋯あれ」


 華奈はゆっくりと俺の後ろを指さし、その指し示した先を確認すると、そこには黒い人影のようなものが立っていた。


「⋯⋯なにあれ」


 人影、そう言ったももの、あれは人影というより影そのものに近い。

 というか、全体が紺色で、明らかに普通の人間ではなさそうだ。

 人影はゆっくりと近づいてくるが、姿は変わらず暗いままだ。


「華奈、家の中に⋯⋯」


 異形としか思えないその物体から華奈を避難かせようとすると、その影のすぐ足元、コンクリートの下から新たな物体が姿を現した。

 今度は人型ではなく、大型犬のような姿で、相変わらず影のように暗く、顔も何も見えない。


「嘘だろ⋯⋯」


 現実的にありえない事が目の前で起きた。

 現れた大型犬のような物は突然駆け出し、俺たちに迫ってくる。

 

「逃げるぞ華奈」


 俺は鞄を放り出し、華奈のランドセルも外して放り投げると華奈の手を引いて走り出した。

 家に隠れても侵入されればひとたまりもない。


「なにあれ、お兄ちゃん」

「わからん。とにかく逃げるしかない」


 後ろを振り返ると、犬型と人型は確かに俺達を追ってきている。

 2体の足は俺達に勝り、徐々に距離を詰めてくる。

 だがそれでも大した速度では無い。

 華奈と走っているからペースを落としているが、1人なら恐らく振り切れる速さだ。

 あの犬型の影は犬では無いのだろうか。

 2体は併走して走っている。

 俺は走りながら周囲を確認した。

 人は本当に誰もいない。少し民家の窓に目を向けると、自分を見ている人物を確認した。

 まるで何かから隠れるように、息を潜めてこちらを見ている。

 そして数々の民家、施設、建造物には奇妙な札が貼られていた。

 よく見えないが四字熟語のようなものが書かれたスピリチュアルな代物だ。

 

「なんなんだこれ⋯⋯化け物でも現れたっていうのか」


 実際、今化け物らしきものに追われている。

 どう逃げ切るか思考を張り巡らしていると、目の前に建設現場が現れた。

 

「ここだ」


 工事中と書かれた張り紙の先に入ると、案の定鉄パイプがピラミッド状に重ねられていた。

 俺はそれをひとつ取ると、工事現場から出た。


 すぐ目の前に2体の化け物が現れ、さらにその右手に新たな人型のが現れた。


「華奈、後ろに注意しながら下がってろ」


 3体に目を配りながら、鉄パイプを右腕で持って構えた。もちろん鉄パイプなんて使ったことない。


「それでどうにか出来るの」

「わからん。でも出来なきゃどうせお手上げだ」


 華奈の足は震え、声からも恐怖が表れている。

 妹が怖がってるというのに、俺は妙に落ち着いている。

 心臓の鼓動もいつもより少し早いくらいで、足の震えもない。

 なんてことは無い、普段の緊張と同じようなものだ。


「こいよ。今更こんなもんで怖気付くわけないんだ」


 不意に由貴の姿が浮かんだ。

 顔が泥で汚れた、よく見た姿だ。

 俺がわざと笑ってみせると、右側の化け物が襲いかかってきた。

 動きは単調で、まるで俺を掴むように両手を前に伸ばしながら突っ込んだ。

 簡単に避けると、後ろから勢いよく鉄パイプを振り回した。

 亡者の体はそのまま前方に倒れ込み、華奈の近くへ行った。


「やばっ」


 咄嗟に化け物に距離を詰め、鉄パイプを何度も振り下ろして化け物を叩いた。

 確かに物体を叩く感触が、何度も何度も体に染み込んでくる。

 これがもし被り物をした人間だったらと思うとゾッとする。

 しかし化け物の様子は変わらず、さらには後ろからから犬型の亡者が飛びかかってきた。


 鉄パイプで弾き飛ばそうと構えると、地面に倒れていた1体が立ち上がり、右腕を掴まれてしまった。

 左腕だけだと不安が残る。

 危機となった俺はほとんど無意識に左手を握りしめ、大きく開かれた犬型の口目掛けて拳を突き出した。


「うおぉ!」


 左腕が熱を帯び、重く感じた。

 普段なら、あの日の傷によって麻痺が残ったせいで左腕はそんなに早く動かせないのだが、今はまるで麻痺なんて存在しないかのように軽やかに動いた。

 犬型の鼻先に触れた左手から、犬型の体は脆い立体パズルのように崩れ落ちた。


「えっ」


 何が起きたのか自分でも理解出来なかった。

 犬型の体はバラバラに地面に転がり、そのまま溶けるように姿を消した。

 続いて振り向きざまに腕を掴んでいた亡者を殴りつけると、同じように消えていった。


「おいおい⋯⋯」


 自分の左腕を確かめたが、見た目に変化は現れていない。ただ少し、突っ張るような、何かが引っかかる感覚があった。

 そのまま、残った一体にも攻撃を与えた。

 弱点が分かった今、単調に進むだけの化け物などに脅威を感じなかった。


「遂に俺にも神の力がやどったか⋯⋯」


 形を失い、消滅する化け物を見下ろしながら呟いた。

 どうやら危機に瀕しても妹を守ろうとした俺に、神様が趣のあるプレゼントをくれたようだ。


「この力を神力と名付けよう。そしてこのゴッドパンチで⋯⋯いやダサいな⋯⋯違う」

「お兄ちゃん!」


 背後から響く妹の声で、現実に引き戻される。

 妹の元へ駆け寄ると、左手で妹の手を握った。


「ねえ、何したのお兄ちゃん」

「分からん。とりあえず逃げるぞ華奈」

「うん。でも逃げるってどこに」


 華奈は、脅えた様子で言った。

 辺りを確認しても、今はそれらしき物は見当たらない。

 どこへ行けばいいのか考えていると、瞳美の姿が頭に浮かんだ。


「そういえばあいつ、隠れてって言ってたな⋯⋯」


 瞳美は自分達に襲いかかってきた存在のことを知っているのではないか。

 不発弾を見たいからではなく、あの化け物に対して慌ててこの方向へ走っていたと考えるとしっくりと来た。


「瞳美を探そう。多分あいつ何か知ってるぞ」


「お姉ちゃんが? わかった⋯⋯」


 俺は走り出し、瞳美の姿を探した。

 俺達とも息を乱しながら、必死に瞳美を探した。


「瞳美ー」


「お姉ちゃんどこにいるの」


 しかしながら、瞳美はおろか、人1人外には現れなかった。


「どうなってんだこれ」


 俺は苛立って頭を搔いた。

 人は誰一人として外に居ない。それなのにさっきから化け物はうじゃうじゃと街を漂っている。それに周りをよく見るとこの辺りの建物全てにも霊全想真とか訳の分からない文字が書かれた札が貼られている。

 この状況から、俺はひとつの推測にたどり着く。


「不発弾なんてよく言ったな。そう言ってればこの辺りの人間は逃げるか隠れるかのどっちかだもんな。これは嵌められたな」

「嵌められたって誰に?」

「瞳美だよ」

「え? どういうこと。なんでお姉ちゃんが」

「あいつ、なんでか知らないけどあちこちにある札があればあの化け物に襲われないこと知ってたんだ。なのに言ってくれなかった。あいつがちゃんと教えてくれてたら俺たち今頃家の中で隠れてて何ともなかったんだ。だから瞳美が悪い!」


 華奈が凍るような視線を浴びせてくる。

 兄としてこれほど辛いものはない。


「ただの押しつけだよそれ。恥ずかしくないの」

「ない! そう言う事だ。今から帰るぞ。おい、そんな顔でお兄ちゃんを見るのはやめてくれ。ほんと死んじゃうから。可愛い顔が台無しだぞ」


 華奈は俺に呆れたのか、何も言わない。

 俺達が振り向いて家に向かおうとした時、背後から何かが落ちるような音が聞こえた。

 肩が跳ね、俺はパイプを持つ手に力を込めた。左手が、妹に強く握られている。

 それではお兄ちゃんの最終兵器アルティメットウェポンが出せない。

 振り返ると目の前に美人な女性、両腕と左足に包帯を巻いたキャリアウーマン姿の人が立っていた。


「貴方たち、瞳美の知り合いなの?」


 俺と目が合うと開口一番に、女性が口を開いた。

 それにしても美人だ。俺の好みでは無いが。

 華奈は女性の姿を見上げ、頬を染めている。

 何となく、瞳美も同じような反応をすると思う。別に根拠などないが。

 俺は女性の全身を確認し、口を開いた。


「知り合いですけど、今あなた飛び降りてきましたよね。しかもヒール履いて。どうなってるんですか」


「ああそれはまあ⋯⋯構わないじゃない」


 女性は視線を逸らしながら白々しく誤魔化した。

 おかしな化け物に出会ったかと思えば、今度はおかしな人に出会ってしまった。


「それより貴方達、近所に住んでるなら早く家に帰りなさい。ここは危険よ」

「それはあの化け物のせいですか」

「亡者を知ってるのね⋯⋯」


 俺の問いかけに、足を引いた女性だが、すぐに冷静になった。

 それとどうやらあの化け物は亡者というらしい。


「亡者っていうのか。そりゃあちこちにいるから知ってますよ」

「ええ、とにかく家の中に隠れてて。瞳美なら大丈夫だから」


 色々と目の前の女性に聞きたいことはあったが、それらを全て飲み込み頷いた。


「わかりました」


 そう言って華奈の手を引き、歩き出した。


「まって」


 女性の呼び声に足を止めた。

 振り返ると女性は右手を伸ばし、口を開いたまま前傾姿勢になっている。

 俺の背中になにかついていたのだろうか。


「貴方、どこかで私に会ったことがないかしら」


 俺は目を細め、女性を凝視しながら記憶を探った。

 朧気に目の前の人物と思われる姿が浮かんでくるが、はっきりとしない。

 小4以前のことをあまり思い出さないようにしていたせいだろうか。

 こんな美人、1度見たら忘れるはずがないと思うのだが。

 それにもしこの人の考えている人が本当に俺なら、なにか記憶に残る出来事があったはずだ。


「会った気はします。でもすみません。小4以前のことはいまいち思い出せないので」


 思い出せそうにないので、この場から去るため一礼し、華奈の手を寄せた。

 華奈が女性にお辞儀すると俺達は走り出した。 



「お兄ちゃんさっきの綺麗な人のこと知ってるの」


 家に向かって走っていると、華奈が声を掛けた。


「うーん。多分知ってるような⋯⋯なんとも言えないような」

「なにそれ」

「少なくとも初めて会ったとは思わなかったんだよ」


 自分でも曖昧な答えに苦笑いしながら、左手の人差し指でこめかみを抑えた。

 グリグリと指を回すように押すと、いつも分からないことが記憶の中から溢れ出てくるのだ。

 しかし今回は上手くいかなかった。


「私だったらあんな美人に会ったら絶対忘れないけどね」

「お前なあ、そこはイケメン⋯⋯いや、華奈にとって俺以上に記憶に残る男など存在しないというわけか」


 横目で華奈を見ながらほくそ笑んだ俺は、何故か足取りが軽くなった。


「何言ってんのこの馬鹿お兄ちゃん」


 華奈は俺を睨みながら呟いた。

 相変わらず口の悪い妹だ。

 家のある路地に向かって角を曲がると、玄関先にスーツ姿の母が立っていた。

 

 母は胸の前で手を重ねながら、不安げな表情で待っていたが、俺達姿を確認すると大きく手を伸ばして振った。

 ランドセルと鞄を表に置きっぱなしにしていたのもあって、心配してくれてたのだろう。

 母の姿を確認すると、華奈は疲れている体を奮起させ、俺の前へ出た。


「お母さん!」


 母は俺達に駆け寄り、前に出た華奈の体を抱きとめた。


「華奈! 寿磨も! どこ行ってたの」


 母は片膝を付き、声を震わせながら華奈の体目一杯抱きしめている。

 華奈は体をよがらせたが、母が逃がさない。


「変な生き物が出てきたからお兄ちゃんと一緒に逃げたの。でもね、御札が家にあるから帰って大丈夫だって」


 恐ろしい思いをし、やっと母に会えたからか、華奈の頬に涙が零れる。

 俺の前では強がっていたのだろうか。

 本当によくできた妹だ。

 俺は2人の様子を見ながら鼻息を漏らし、頭を搔いていると、確かに家の壁に見慣れない札が貼られているのに気がついた。

 さっき帰ってきた時には気が付かなかった。

 あのまま家に入っていればと、後の祭りだが今更後悔した。


「そう⋯⋯よかったわ」


 そう言って母は立ち上がると、俺の右腕に視線を向け、目を見開いた。

 そういえば、鉄パイプを工事現場から持ってきていた。

 後で返しに行かなければならない。


「寿磨、なんでそんなもの持ってるの」


「ああ、亡者を倒すのに役立つと思って。別に不良少年になった訳じゃないから」


 そう説明すると、突然母の顔が神妙になった。


「どうして亡者の名を知ってるの」


 この態度は妙だ。まるで母も亡者を知っているみたいに。


「帰ってくる前に会った女の人に聞いた」

「そう。そうなのね」

「あのねお母さん。お兄ちゃん凄いの。あの変なのを3匹も消しちゃったの」


 間に入ってきた華奈の発言に戸惑う顔を見せた母が、俺の肩を掴んだ。


「貴方、どうやって亡者を消滅させたの」


 そこそこ強い力で両肩を掴む母にたいして動揺してしまったが、俺は少し恥ずかしい気持ちで母に説明した。


「そ、それは俺のゴッドパンチ⋯⋯いや、悪気消滅拳あっきしょうめつけんで⋯⋯」


 先程から考えていた左手でのパンチの名を、ボソボソと口にしながら、左手を顔の傍に持ってきて母に見せつけた。

 亡者という名を聞いて思いついた。

 自分ではなかなかに良き名だと思うが、2人の反応を確かめると、妹はまるで俺を兄とも思わないような目で見つめ、母も顔を引き攣らせながらため息をついた。


「お兄ちゃん。凄く格好悪いよ」

「まあそういう年頃なのよこの子も」


 母と妹の冷たい対応に、胸が締め付けられる。

 別に俺は普段からそういう趣味や嗜好があった訳では無い。

 俺は右手の鉄パイプを股に挟むと、肩に乗っている母の両手を掴んで下ろした。


「それより母さん。亡者について何か知ってるんだろ」

「え?」

「とぼけなくていいよ。爆発したとの知らせも発信されてない不発弾見に行って帰ってきた子供見て感極まったりするわけないじゃん。まあそもそも不発弾なんてないんだけど。それに母さん亡者の呼び方しってるのもおかしいよ」


 母は少し目をキョロキョロとさせながら肩にかかった黒髪を触っていたが、すぐに俺と目を合わせた。


「その事は家の中で話すから。亡者のことも、恐らく今あなたの中で起きているその左腕のことも」


 左腕と聞いて、俺は唾を飲み込んで左腕の袖をまくった。

 痛々しい痣と抉られた傷が、あの日を刻み込んでいる。

 なんだか少し、痣が濃くなっている気がする。

 最近あまり見てなかったから、気のせいだろうか。


「やっぱり。由貴のアレが関係してるのか」

「恐らくは」

「てことは由貴もあの化け物と⋯⋯」


 この左腕が亡者に対抗しうる力を持つのは、あの日豹変した由貴に噛み付かれたせい。

 そうだとしたら、あの豹変した由貴はただ気が可笑しくなったのではなくて、亡者のような化け物に変えられ、その力が俺の左腕に宿ったと考えられる。 

 べつに由貴に恨みなんてない。でもその名を聞くと、どうも気分が落ち込む。

 俺はまだあの日のことを昨日の事のように引きずってるらしい。

 俯いて唇を噛んだ。


「とにかく、それも全て話すから家に。華奈も」


 華奈は頷くと母が玄関に置いていたさっき落としたランドセルを拾い上げ、家の中に入った。

 その様子を見て俺は1歩後ろに下がる。


「何してるの」


 俺は俯いたまま、また1歩下がった。

 今自分が考えてやろうとしていることは、母にとってはやめて欲しいだろう。



「ごめん母さん。俺行ってくる」


 顔を上げた俺は股に挟んだ鉄パイプを右手に持った。

 由貴が亡者になったとしたら、行方不明になってあの謎の男と現れるまでの間だろう。

 顔を名前も知らない相手だが、亡者が大量に姿を現している今なら、その顔を覗かせてるかもしれない。

 そういう風に頭で考えていると、じっとしていることは出来ない。

 母は何度か小さく首を横に振って、顔を強ばらせた。


「何馬鹿なこと言ってるの。どこに行くっていうの」

「瞳美の所、あいつは今亡者と戦ってるはずだから。それにもしかしたら、あの男が見つかるかもしれない」

「瞳美ちゃんならきっと大丈夫だから」

「きっと? そんなの信用出来るわけないだろ」


 自然と口調が早くなり、語尾が強まる。


「瞳美ちゃん自身なのか、仲間の人のお陰なのか知らないけど、あの札が瞳美ちゃんの近くにあればきっと大丈夫。その理由わけも話すから」


 母は俺の左手に手を伸ばした。

 俺は今まで、親に口答えすることはほとんど無かった。

 小さい頃はそれなりにあったが、小学校高学年になった頃から、自分でも驚くほど口答えも心配も書けなくなった。

 多分それは、あの日病院の中で号泣しながら俺を抱きしめた母の姿が忘れられないからだろう。

 

「だから、早く」


 母が手を引っ張ったが、俺はその場で踏ん張った。


「寿磨っ!」


 母は怒鳴り声を上げた。

 それでも俺は動じず、母を見据えた。

 結局のところ、無鉄砲な子供で申し訳ないと思う。

 だが瞳美が今起きている現象の渦中にいるなら譲るわけにはいかない。


「約束なんだよ。俺がさっき会った瞳美の知り合いだという女の人は怪我をしていた。瞳美が奴らのせいで同じように怪我をする可能性も、最悪の事が起きる可能性も充分ある。あの様子じゃ恐らく瞳美は俺なんかより強いし、その亡者とも戦えるんだろう。でも⋯⋯」


 瞼が熱くなり、目が潤んでくる。

 喋りながら脳裏に浮かぶ幼なじみ2人の姿を認識すると、動かないわけにいかない。

 自然と水滴が頬を伝う。


「俺はもう2度と約束を破るわけにはいかない。由貴のためにも、瞳美だけは守らなきゃいけないんだ」


 言い終えた時には、目頭に溜まっていた液体は全て流れ落ちていた。

 母は戸惑っているようだったが、1度大きく息を吐くと、じっと俺の目を見据えた。

 その眼差しは今までに覚えのない力強いものだった。


「亡者は人や生き物の魂が捻じ曲げられた姿よ。それも生死は問わない」

「母さん⋯⋯」

「寿磨、間違いなくこの騒動には人間の黒幕がいる。瞳美ちゃん達と協力すれば人間相手なら充分どうにかできるはずよ。だからあなたは黒幕が分かるまで瞳美ちゃん達のサポートに回りなさい。いくらその左腕で戦えるといってもただの鉄パイプじゃ亡者は倒せない。でも相手の人間が銃でも持ってない限り、協力すれば勝てるはずよ。昔からあの子のことを必死で守ってきた貴方ならできる」


 母が両手で俺の左手を握りしめる。

 固く暖かい、大切な手だ。

 俺は全身に電気が流れたように震えが起こり、口角を上げた。


「いい? 寿磨。無事に帰ってきなさい。怪我でもして帰ってきたらこれからあなたが家を出るまで毎日チンゲン菜の炊き込みご飯よ」


 母の至って真剣な姿に、思わず笑い声を漏らした。

 実際、それは死んでも嫌だ。


「ははっ。じゃあ行ってくるから」


 母は頷くと、両手を離した。


「言ってらっしゃい」


 母が言い終えると同時に、俺は走り出していた。

 振り返るつもりは無い。また顔を見るのは無事に帰ってきてからでいい。

 だが実際、俺は直ぐに家へ帰って玄関を開けた。


「やっぱ自転車で行くわ」


 玄関先に吊るされた鍵を取り、勢いよく玄関を閉めると今度こそ俺は瞳美達のいるであろう雨宮高校に向けて漕ぎ出した。



 


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