兄は悪魔と再会する
「ふう、今日の仕事はこれで終わりだね」
そう言って、男は凝った体をほぐすように伸びをする。
「お疲れ様です。ベイクド様」
「ああ、ありがとう。アレアは気が効くね」
男――ベイクド・ノータリンは目の前に差し出された紅茶を一口飲むと、ほっと息を吐く。
ちょうど良い温かさと、自身の好みを完璧に把握した素晴らしい紅茶だ。
ベイクドの専属メイド、アレアの職人技であった。
「さて。今日は君に
「はあ、まあいいですけど」
アレアはため息を吐く。
「どうして、急に奴隷の子たちを解放したのですか? それも全員」
「い、いや。それにはふか〜い訳があったのだよ」
「?」
首をかしげるアレア。
これはまずいと思ったベイクドは、誤魔化すようにげふんげふんと大げさに咳払いをする。
「ま、まあそんなことより。とにかく今日は君に頼むからねアレア」
そう言って、ベイクドは部屋の隅に隠しておいた
「まったく、仕方ないですね」
そう言ってアレアが執務室のソファに座ったのを確認すると、ベイクドはすかさず彼女の下へと駆け寄った。
そうして、取り出した
彼は、アレアの膝へと飛び込んだ。
「ママぁ! ママぁ! だいちゅき、ちゅっちゅ!」
「は〜い、ベイクドちゃん! アレアママでちゅよ〜! 今日もがんばれて、えらい! ベイクドちゃんはと〜ってもえらいね〜!」
「えへへ、えへへ」
「よ〜ちよちよち! かわいいかわいい、ベイクドちゃん! ママの膝枕でよちよちしましょうね〜!」
「きゃっきゃ! きゃっきゃ!」
手にはガラガラ。
首にはお気に入りの涎かけをまとい、口にはおしゃぶりを装備する。
そこにいるのは、次期領主で男爵家の後継者である24歳の成人男性ではない。
どこにでもいるような、ただ1人の。
そう、ただ1人の赤ちゃんが――
「きゃっきゃ! きゃっきゃ!」
にちゃりとした満面の笑みでおしゃぶりを咥え。
涎かけを汚し、ガラガラを嬉々として鳴らす。
この瞬間、この瞬間だ。
この瞬間が、ベイクドの生きる意味。生きる幸せ。
ベイクド・ノータリン。
この世界に生きる、1人の
彼は今、幸せの絶頂に生きていた。
願わくば、ここにオムツがあれば尚良かった。
――と、そんなとき。
ベイクドの執務室にノックの音が響く。
「――入れ」
すん、と。
超高速で赤ちゃんグッズを仕舞い込んだベイクドは、何事もなかったかのように居住まいを正す。
にちゃりとした笑みは彼方に消え、すんとした貴族の顔を作る。
そして貴族然とした所作でソファに優雅に座りながら、入室する執事を悠然と迎えた。
「失礼いたします。実は、ベイクド様に会いたいという者が来ていまして」
「ふむ? 僕に会いたいと。こんな時間にかい?」
ベイクドは、不思議に思い執事に尋ねた。
すでに今の時間は夜だ。来客がこのような時間に来ることは滅多にない。
いったいどこの誰なのか、礼儀の無さを思うよりも純粋に疑問に思った。
尋ねられた執事は苦々しいと言わんばかりの顔をする。
「その者は、ベイクド様に用があると。話は通してあると一点張りで。対応した門番や私もほとほと困り果ててしまいまして」
「僕に来客の予定? あったかな」
ベイクドは頭をひねるが、やはり記憶にはなかった。
傍に立つアリアへと視線を向けるが、彼女もまた首をかしげる。
「やはり、来客の予定などはないのですね。では、私の方で無礼者は追い返しておきましょう。失礼いたしました、ベイクド様」
「ああ、ご苦労だったね」
すっと綺麗な礼をする執事を労う。
っと、執事が部屋を出ていく直前。
なんとなくふと、ベイクドは執事に尋ねた。
「――っと、そうだ。名前くらいは聞いておこうかな。いったい、誰が僕を訪ねてきたんだい?」
それは、ちょっとした雑談程度のもの。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただふとした瞬間に出てきた言葉。
それが、明暗を分けた。
「――ああ、あの無能ですよ。ノータリン男爵家の産まれでありながら、魔法すら使えないゴミ。先日追放された、レイスとかいう無能です」
「!!?!???!???!!?」
その言葉を聞いた瞬間、ベイクドは体を尋常でないほどに震わせながら立ち上がる。
恐怖が脳内を支配し、忌々しい敗北の記憶が蘇る。
意味のわからない力を発揮して、剣とかいう無能の代名詞的な棒切れでなすすべもなく圧倒され。
エリートの自分が奴隷という身分に落とされた。
「くっ!? ハァ……ハァ……!!」
「べ、ベイクド様!?」
それは、自己防衛。
高貴にして、エリートであり、いずれ男爵の地位を継ぎ領主となる自分。
その誇り高き、自我と尊厳。
それらを守るために、彼の脳が
しかし、今。
その自己防衛たる厄災の箱は開かれた。
「うっ……」
「ど、どうしたのですかベイクド様?」
バランスを崩し倒れ込みそうになる。
しかし、そばに立っていたアレアが気遣うようにベイクドを支える。
ふわりとした柔らかい感触と愛するママの安心する香り。
それを感じ取ったベイクドはなんとか自我を保つ。
息も絶え絶えで今にも倒れそうだ。
というか、アレアがいなければもしかしたら自己防衛を突破された反動でショック死していたかもしれない。
すなわち、自己防衛ショックだ。
恐ろしい。
ベイクドはアレアの母性に感謝しながら執事に告げる。
「ハァ、ハァ。何やってるんだ、早くレイスを呼んでくれ」
「!? で、ですがレイスですよ!? あの無能の――」
「――いいから! さっさと呼ぶんだ! ゲホ、ゴホ! 僕が許可したんだから、君は従ってくれるだけでいい!」
「は、はい! 直ちに!」
ベイクドは血相を変えて執務室を出ていく執事を見送る。
本音を言うと、ベイクドはあの弟とは会いたくない。
できれば二度と。
欲を言えば、別の大陸とかに行って自分に関わらないまま一生を過ごしてほしい。
そこでひっそりと死んでくれればなお良し。
「……会わないわけに、行かないからね」
ぼそりと、呟く。
仮にあのまま追い返していたら。
そう考えると、ベイクドは背筋が凍りつくような錯覚を覚えた。
――殺される。
あの頭のおかしい化け物は、命令不服従を指摘して嬉々として殺しにかかってくるはずだ。
きっとそうに決まっている。
あの人を人と思わない冷たい目に見られながら、死ぬ。
「くっ……」
想像するだけで、怖気が走る。
ベイクドはアレアの母性でなんとか精神を癒し、乱れる呼吸を整えるとソファにどかりと座り込む。
心配気にこちらを見るアレアに気を遣う余裕もない。
断頭台へ送られる死刑囚のような気持ちで、ヤツとの対面をただ待った。
「――失礼します」
しばらくして声が聞こえた。
知っている。自分は、その声を知っている。
――ヤツが、来る!
「どうも、こんばんは。兄さん」
ノータリン家の誰にも似つかない黒髪。
線が細く、すらっと長い手足に高い身長。切れ長のつり目をした整った顔立ち。
その目は、黒く。ただただ黒く。
漆黒よりも深黒な、塗りつぶされたような暗黒の目。
それはベイクドが唯一地上で見たことのある、悪魔。
「――良い夜ですね」
にっこりと。
ベイクドを見た悪魔は、
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