十二 (2)
朝食の後、書斎へ行って、仕事机の横のバタフライテーブルを動かしにかかった。学生たちとのゼミでも使ったこのテーブルは、机で書き物をする時に資料を広げる場所なのだが、机の脇に設置した書棚の、いちばん下の段を隠している。普段は目にも入らず、手も届きづらい棚を露にすると、私はその中から、厚く中身の入った茶封筒を引っぱり出して机に置いた。埃と古くなった紙の匂いが立つ。
封筒の玉紐を外し、口を開けて手紙の束を引き出す。どの手紙も、元の封筒に入ったままだ。一通を抜き出し、手書きの宛名と差出人名を眺める。アーネストからの手紙――あの、ニュージャージーでの蒸し暑い午後に断ち切られた時間、私たちがそれまで、ともに積み上げてきた時があったことの証拠が、この手紙の束だった。かつては彼からの便りを郵便受けに見つけるたび、心が喜びに溢れたものだが、別れを告げられた後は、過去の手紙は痛みしかもたらさなくなった。それでも捨てることができず、こうしてしまい込んであった。
エアメール専用封筒は半透明の水色で、壊れそうに薄い。そこに、アーネストは濃いブルーのインクでAIR MAIL、JAPANとだけアルファベットで記し、あとは日本語で私の住所氏名を書いていた。封筒から便箋を取り出して開く。
悲しみ、痛み、アーネストとの思い出など、何らかの感情がよみがえってくるのを待ったが、何も湧いてこない。年月が経った今になってみると、懐かしいという気持ちさえ風化して、自分とは違う誰かの人生の遺物を見ているようでもあった。記憶のよすがとしても、手紙の寿命はとうの昔に尽きていたのだ。私は便箋を元通りエアメール封筒に収め、手紙を全部、大きい封筒に戻した。
物置からブリキのバケツを探し出し、茶封筒を入れる。バケツとマッチの箱を持って、庭に出た。外水栓のそばにバケツを置いてマッチを擦り、茶封筒の上に置いた。
炎が立ち、オレンジ色の舌は見る間に封筒とその中身を舐め尽くしていった。
かすかに音を立てながら、過去の未練の名残りが燃え崩れていくのを見守って、――もう一つあったな、と思い出した。バケツの中のものがすっかり黒くなり、火が鎮まったところで、水栓を開けて水を入れた。
書斎に取って返し、写真集や画集を並べた棚に目をやった。コンコードの写真集は、ボストンの写真集と印象派絵画展のカタログの間に見つかった。えんじ色の背表紙が両隣の本より少し深く押し込まれているのは、如月が手に取った形跡だろう。棚から抜いて開き、ページの間に大判写真用の封筒が挟んであるのを取り出して、庭へ戻った。
燃やしてしまう前に一度見ておこうと、封筒の口を開いた。如月が、この人を抱きたいと思った、と言うのだから、よほど扇情的なポーズか表情の写真だっただろうか。記憶は曖昧だったが、着物と折り鶴が入っているのなら、アーネストが根津にいた頃に撮ったもので間違いない。黄褐色の、縁の傷んだ封筒に手を入れた。滑らかな印画紙が指の腹に触れる。端をつまんで引き出し、写真の全体を見た時、動けなくなった。
そのモノクロの画面の中で、若い私は畳に座り、立てた片膝を左手で軽く抱えていた。肩に羽織った
予想していなかったのは、モデルを務める私自身の表情だった。アーネストに指示されて演じた、挑むような目つきの顔や夢にたゆたう表情ではなく、自然な笑顔だ。それも、レンズの向こうの撮影者にありったけの信頼を寄せ、愛しくてたまらないという感情が、内からこぼれ出てくるような笑顔だった。
人前に作品として出すには、あまりに私的な雰囲気の写真だ。本番の撮影ではなく、その合間のくつろいだ瞬間に切り取られ、固定された私の時間。
――いったい、いつの……。
錆びついた記憶の引き出しが開いて、遠い初夏の光が、眼前によみがえった。
アーネストが日本に来て二年目の、五月か、六月だっただろうか。日差しが明るいのにきつくはなく、まだ梅雨にも入らず、風がさらりと乾いて庭木の緑の美しい頃だった。木々の葉が、暑さと日照ですっかり濃く固くなるまでにはまだ時間の猶予があって、十分に大きく育ってはいながらも触れると柔らかく、表皮の下には芽生えの頃の浅緑が残っている、そんな季節だ。私の肩ほどの高さのさつきには、二色の花が枝いっぱいに咲いていた。薄紅色の、それも白に近い花が多い中に珊瑚色の花が交じって、乙女の瑞々しさに華やかさと複雑さを添えていた。
「惇也、表情が硬いね」
着物を着せかけてくれながら、アーネストは言った。眼鏡の向こうから、はしばみ色の瞳が微笑む。袖をまくった腕に産毛が光り、風にそよいでいた。
「だって、こんな真昼間に庭の見えるところで、恥ずかしいもの」
「君とぼくしかいないじゃないか」
「外の風が素肌に触って、変な感じがするんだ」
薄雲を通した午前の光をアーネストが気に入り、珍しく早い時間帯の撮影だった。雨戸と障子が開け放たれ、私は縁側のそばでポーズを取ろうとしていた。
私の緊張を和らげようと、アーネストは頬や唇に接吻し、カメラの後ろに戻った。少し考え、茶目っ気を交えて言う。
「ねえ、知ってる? 君はぼくに、愛してるって言ってくれたことがないんだよ」
「そうだね」
「今、ここで言ってくれない?」
私は反応に困って笑う。
「そんなことを求めるなら、まだあなたは日本の文化を十分に知らないんだ。日本人には、そういう表現を使う習慣がない。それに、直接的な言葉を使わなくても、愛情は伝えられると思っているからね」
「
アーネストはそこだけ日本語で言った。
「神秘的で繊細で、魅力的な概念だね。でも、君が言った通り、ぼくは日本文化を自分のものにできていない。言葉なしには君の気持ちを確かめられない、鈍感で不器用な西洋人だよ。そのぼくのために、こちらの文化に、近づいてくれないだろうか。そんなに、難しいことじゃないだろう。ただ一言、
私はためらった。アーネストがささやく。
「
「アイ・ラヴ……」
言いかけて、頬が熱くなるのを感じた。
「照れてしまって言えないよ」
「
目を閉じて、息を整えた。吸った空気に青い花の香りが混じる。彼を見て、口を開く。
「
言った途端、胸の内からたくさんのシャボン玉が放たれ、虹色に輝いて飛ぶ感覚があった。シャッター音が響く。愛の宣言をして、私の頬は染まり、息ははずんだ。
アーネストはファインダーから顔を上げた。
「言えたじゃないか。今度は日本語でも言って」
「日本語でなんて、もっと恥ずかしいよ」
「君の
アーネストの、赤褐色の髪に落ちる光の粒、私の反応を待つ微笑み、肩幅の広い、姿勢の良い身体を包む麻のシャツ、カメラに添えた指の一本一本を見た。そのすべてが眩しく、愛おしく、かけがえのないものだった。唇を湿す。
「……愛してる」
日本語がこぼれた。アーネストの表情が動いて、初めて会う人を見る目に変わった。
「もう一度言って、惇也」
「あなたを愛してる、アーネスト」
今度は彼に向かってはっきりと、声が出た。
「大好きだ」
言い終わった私に、アーネストはゆっくりと拍手をしてくれた。肩の力が抜けて、自然に顔がほころぶ。アーネストがすかさずファインダーを覗き、シャッターを切った。これまで越えられずにいた境界を、私は飛び越えたのだ。高揚感と喜びが入り混じり、解放された気持ちでいっぱいだった。
「惇也、ありがとう。嬉しいよ」
私のそばに来てキスをし、アーネストは言った。
「とてもいい顔になった。じゃあ、本番に入ろうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます