十二

十二 (1)


 廊下を歩く人の気配に目が開いた時、部屋はまだ薄暗かった。寝覚めでぼやけた意識の焦点が徐々に合い、家にいる人間が自分だけではないことを思い出す。カーテンを持ち上げて外を見ると、夜はやっと明けるところだった。雨は上がっている。窓から見える道路と裏庭に、昨夜の風で吹き飛ばされた木の葉や小枝が散らばっていた。枕元の時計が午前六時を指しているのを見て、寝間着の上にカーディガンを羽織り、息子の部屋へ行った。如月はおらず、緩くたたんだパジャマがシーツの上に積んであった。

 一階に下りていくと、身支度した如月がキッチンにいた。調味料や乾物を並べた棚から何かを見つけ出そうとしている。私を見て、おはようございますと言った。

「おはよう。何か探している?」

「インスタントコーヒー、ありませんか」

「インスタントは置いてない。豆を挽いてあげる」

 寝間着で失礼と断って、冷蔵庫からコーヒー豆の袋を取り出した。豆の分量を量ってミルに入れる間に、如月が言った。

「岬の見送り、やっぱり、行きます」

 私はハンドルを回しながらうなずいた。

「岬くんも喜ぶと思うよ。朝ご飯、食べていくかい」

「いえ、途中で適当に食べます。コーヒーだけいただいていきます」

 出来上がったコーヒーを一緒に飲んだ。あまり寝ていないのにもかかわらず、如月は昨夜ここに来た時の切羽詰まった様子はなくなって、落ち着いた目をしている。肉体は年を取っていないのに、精神だけが急に成熟したようでもあった。

 如月は、目が覚めた時には、岬を見送りに行く意思が固まっていた、と言った。

「みんなの前じゃ、言いたいことも言えないって悩んでたんです。でも、もしすごくありきたりなことしか言えなかったとしても、岬なら俺の言葉を、他の人とは違う意味に受け取ってくれるだろうって、思い直しました。俺の言いたいことをわかってくれるだろうって」

「そうだね。君と岬くんの間には、君たちだけの時間があったんだから、彼を信じたらいいよ」

「ええ。だから、今までありがとう、絶対忘れないって、それから……」

 如月は両手にカップを支え、適切な言葉を探そうとする目でしばし黙った。

「朝永先生。前にここに来た時、岬と離れたら生きていけない感じがするって、話したでしょう」

「うん。ぼくにはそういう気持ちがわからないんじゃないかって、君は疑ってたね」

「でも、先生はあの時、自分にも経験があるって言いましたね。それで昨夜ゆうべ、とても長い間付き合ってた人がいたって、教えてくれたじゃないですか。その人と別れた後、どうやって生きてこれたんですか。奥さんがいたから、大丈夫だったんですか?」

「いや……。正直、もし簡単に死ねる状況にいたら、死んでいたかもしれない。本当に、紙一重のことだよ。妻や子どもたちがぼくの命を救ったのは事実だ。でも、家族がいるから、彼がいなくてもよかったというわけじゃない。ぼくには生きて、家族を支える責任があると思い直したんだ。それを果たすために、一日一日、やるべきことをやって……。その積み重ねで、この年まで生きてきたという感じだね。毎日一枚ずつ、紙を重ねていけば、一年で立派な本くらいの厚みになるだろう。何でも同じじゃないかな」

「そうやって、俺も生きていけると思いますか」

「それが唯一の方法だよ」

 わかったというふうにうなずいて、如月はコーヒーを啜った。私は訊いた。

「何て言ってあげるの、岬くんに?」

「ん……。うまい言い方、まだ考え中なんですけど……。取りあえず、岬と一緒でなくても毎日大学に行くし、飯も食うからって感じかな」

「悪くないね。きっと岬くんも、安心するよ」

 使い終わったカップを流しに運んだ時、如月が指を伸ばし、私の唇の縁のほくろに触れた。

「先生。ここにキスしたの、俺で何人目?」

 一瞬、考えた。

「六人目だね」

 ええっ、と彼はがっかりした声を上げた。

「三人目くらいだと思ったのに……。見かけによらないですね」

 むくれ顔に、思わず口元が緩むのを我慢する。

「英語の格言があるよ。Don't judge a book by its cover. 本の中身を表紙で判断してはならない」

「それ、試験に出ますか」

「人生のね」

「憶えておきます」

 如月はちょっとかがんで、私と唇を触れ合わせた。彼の顔が離れた時、私は言った。

「卒倒しそうだよ」

 如月は笑った。

「今なら、救急車呼んであげますよ」

 チイコは玄関まで私たちについてきて、如月が上着を着る間、彼の足首にブルーグレーの毛をこすりつけていた。彼は彼女の顎下をくすぐり、じゃあな、と小声で言った。

 靴紐を結んで立ち上がり、私と向かい合う。別れの挨拶をすると見えたのが、ためらい顔でうつむいた。

「――どうかしたのかい?」

 私は訊いた。いっときの沈黙のあと、再びこちらを見た彼の目に、決意があった。

「朝永先生。こんなこと言ったら、生意気に聞こえるかもしれませんけど……。あの、書斎にあった写真。俺は、あれを撮った人は、先生を愛していたと思います」

 反応のすべがわからず、そこに立ち尽くした。

「先生は、彼に愛されてなかったんじゃないかと思ってるんですよね」

 無言でうなずく。

「俺、先生に聞いた話と、あの写真のほかは、何にも知りません。だけど、愛されている人でなきゃ、あんな表情、できないですよ。俺はそう思います」

「――ありがとう」

 やっとの思いで、声が出た。

「ありがとう。如月くん」

 ドアを開ける。玄関の外まで見送りに出た私に、如月は大きな声で言った。

「失礼します」

 彼が深く頭を下げる。私たちは再び、教師と学生の関係に戻っていた。

「空港まで、気をつけて。岬くんによろしく」

 にっと笑って、彼は通りへ出ていった。角を曲がって姿が見えなくなる前に一度振り返り、私に手を振った。

 家の中へ戻ると、チイコが盛んに私の足首に身を擦りつけてきた。

「ああ、ごめん。朝ご飯だね」

 キャットフードと水を彼女の食器に入れてやってから、着替えのために寝室に戻った。カーディガンを脱ぎ、寝間着の胸のボタンを外し始めた時だった。

 目に入ったものに、息を呑んだ。

 思わずそこを手で押さえる。恐る恐る手のひらを開けてみて、見間違いではないことを確かめた。クローゼット横の鏡を見る。胸の中心に、はっきりと浮かび上がった、昨日まではなかったもの――

 私はしばらく、茫然と鏡の前に立っていた。それから強く頭を振ると、胸も鏡も見ず、着替えを続けた。

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