十一 (2)

「まだバイセクシュアルって言葉も知らなかった頃、自分と同じような人を探して、街を彷徨ってたことがあるんです。高一の時、出会った相手が悪くて、無理やりやられました」

 私は無言で耳を傾けた。

「両親と兄は旅行中で、家には姉しかいませんでした。家に帰ってから、俺の様子がおかしいのに姉が気づいて、問い詰められて……。警察に行こうって言われたけど、絶対行かないって言い張って、大喧嘩になりました。外でそんなことしてたって、親にばれるのが怖かったんです。姉が根負けして、警察には届けずに済んだけど、病気もらってたらやばいからって、検査に引きずって行かれました。

 もし警察に行ってたら、公式に、性犯罪の被害者ってやつになったんですよね。姉は、俺がそうだって言いました。でも、長いこと、自分で認められなくて。被害者って言われると、名前がなくなるような感じがするでしょう。それって俺のことなの? って。俺は違う、ああいうセックスも大人はするんだ、俺が無知だからショックだったんだ、全然大したことじゃないって証明しようとして……。わざと引っかけられて誰とでも寝るのを、何か月か繰り返してました。その、憶えてもいないたくさんの相手の中に、柳井もいたんです。一月の、正式相談の手順を先生に訊いた日……。あの日に、言われました。もういっぺん、寝てみないかって」

 せき止めていたものが、如月からとめどなく溢れてくるかのようだった。

「俺がうんと言わなかったら、あいつ、俺が昔やってたことを、朝永先生が聞いたらどんな顔するかなあって笑いやがったんですよ。TAをしてる間、朝永先生が俺に頼ってくれて、すごく信用してくれてるのが伝わってきたから、そのままそう思っててほしい、無茶苦茶なことしてた過去なんて、知らないでほしいって考えて……相談できませんでした。でも、俺が見栄を張ったせいで、朝永先生は柳井なんかに罵倒されて……。このままじゃ、自分で自分を許せないと思いました」

「それで、会いに来てくれた?」

 如月は私と目を合わせずにうなずいた。

「今まで黙ってて、すいません。俺、ろくでもない奴です」

 窓の鳴る音が小さく聞こえている。言うべき言葉を探して宙を見上げた。チイコが食器棚からブルーグレーの尾を垂らし、水色の瞳で私たちを見下ろしていた。尾の先がゆっくりと揺れる。透明な青い静けさの中から、――わかっているでしょう。――とそっと肩を押す力があった。

「――如月くん」

 マグカップを取って彼の手に持たせてやりながら、語りかけた。

「君は、ぼくがどんな人間だと思っている?」

 質問の意図を測りかねる表情で白湯を口に含み、如月は考える時間を取った。

「朝永先生はちゃんとした大人で、……とても、誠実な人だと思います。どうして訊くんですか」

「ぼくも、君に黙っていたことがある。如月くんが見つけた、若い時のぼくの写真……。あれを撮ったのは、ただの知り合いじゃない」

「恋人、でしょう?」

 虚をかれて、如月の顔を見た。

「あの日、後から考えて、きっとそうだと思いました」

「君は鋭いね」

 私はため息をついた。

「そうだよ。留学先で出会ったアメリカ人の男と、十年以上も付き合っていた。妻との結婚生活の、その裏でね」

 如月は瞬きもせずに聞いていた。

「彼は日本文学の研究者でね。日本でもいろいろ、書いたものを発表しているから、名前を出せば、君も聞いたことがあるかもしれない。ぼくは、いわば欧米人が植民地に置く女のような立場にいたんだ。当時は真剣に愛し合っているつもりだったけど、最後は彼から別れを告げられた。アメリカで、ぼくよりも大切な人ができたと言ってね。結局、彼が愛していたのは、彼が撮っていた写真みたいな虚構の日本で、ぼくはその中の演者にすぎなかったんだと思う。

 彼は、この関係は特別なものだから、不倫や浮気とは違うと主張した。ぼくも彼の言葉を信じて、罪悪感を持たなかった。でも、それは都合よく解釈していただけで、妻から見れば、裏切りでしかなかっただろう。彼女は知らずに世を去ったと、ぼくは思っているけど、本当のところはわからない。誠実どころか、卑怯者だよ。柳井に言われたことを心から否定できるなら、手が出たりしなかった。……君を失望させたね。こちらこそ、すまなかった」

 如月は首を振り、カップをテーブルに戻すと、私の肩に顔をもたせかけた。柔らかな髪が頬に触れた。

 彼に許されたのだ。

「ありがとう。如月くん」

 胸を熱くして、毛布の上から彼の肩を抱いた。寄り添ってきた重みが心地よく、手が自然に彼の背を撫でた。

 私たちはしばらくひとかたまりになって、風と雨の音を聴いていた。時折、窓ガラスが震え、界隈の木がいっせいに梢を鳴らしては静まり、幾百万の雨粒が地面を打つ不揃いの韻律が響いてくる。風雨がこの古い家と外界との間を遮断して、ただ彼と私のいる空間だけが夜の波間に取り残されたかのようだった。

 壁時計の秒針が時を刻んでいる。

 如月は指先を私の腿に置いていた。服地を通して伝わる感触から、まだ冷たいな、風呂を沸かそうか、と考えた時だった。朝永先生、と如月がつぶやいた。

「俺が、先生を求めたら……。先生は、応えて、くれます、か」

 身じろぎした私の肩から彼が顔を上げ、目が合った。赤みを帯びた、艶やかな前髪が額に乱れて、その下に琥珀色の瞳が潤んでいた。頬は血色を取り戻し、開いた唇は訪問者を抱き込もうと待ち構える虫媒花さながらに、濡れた縁を露にしている。

 息を呑んだ。幻の香りを放ち、人を陶酔に誘う花のかんばせ。それが、すぐ目の前に……

 ――ベアトリーチェ。「運命の女ファム・ファタール」。――

 先ほどの温かな心地は消し飛び、足元から震えが襲ってきた。

「如月くん……。ぼくは、君をそんなふうには見ていない。君のことを、父親のように支えたいと思って、これまで……」

「嘘だ」

 低く、如月はさえぎった。

「俺、知ってるんですよ。先生の気持ち……」

 彼の指が私のズボンの生地を滑り、内腿を上へとなぞっていく。思わず押し退けようとすると、その手を掴まれた。痺れるような力が腕を駆け上る。強く、まぎれもない、男の力。

 あっと身体をこわばらせた。あのさざなみ――遠い過去に封印したはずのたぎりがよみがえって、身体の奥から無数の泡が立つ感覚があった。如月はさらに力を込めて、私の手を握りしめていく。剥き出しの欲望がその目に宿り、炎は私の感情を沈めた淵の、水面みなもを焦がさんばかりに燃えさかった。

 そこにいるのはもはや、私の知る如月ではなかった。守ってやらねばと思っていた、傷つきやすい若者の姿はどこにもなく、代わって、飽くことを知らぬ魔性の誘惑者が立ち現れていた。

 喉がからからに乾いた。激しい動悸の間から、声を絞り出す。

「君は混乱しているんだ。岬くんが、行ってしまうから……。本気で言ってるわけじゃない」

「俺は本気です」

「――禁じられてる」

「誰も見てない」

 彼がささやく。

「天が見ているよ」

「そんなもの、どこにあるんですか」

 泣き声で問いかけ、彼は再び私の肩に顔を埋めた。

 天、とは。

 おのれの心だ。自分の良心に恥じない行動を選ぶことだ。

 私の顎下から首筋の、露出した肌すれすれに彼の唇が動いていく。息の熱を感じる。セーターの胸に、私を掴んでいない方の手が忍び寄り、遠慮がちに愛撫を始めた。如月も自分を抑えようと必死なのだ。踏みとどまって、私の許しを待っている。

 彼の髪に、自由な方の手で触れた。しなやかな艶が指に絡んで、胸を破る愛しさがせり上がってくる。自分自身の欲望の目を、私は初めて正面から見据えていた。

 これこそ、私がひそかに望んでいたことではなかったか。彼をわがものとし、彼との抱擁に安らぎを得る――そんなことは想像もしなかったかのように振る舞うのは、偽善ではないのか……。誘惑と闘う私に、触れられているのに気づいて、如月が一層身をすり寄せる。

 望んだ愛を得られずに、永遠の奈落へと墜落していったレイモンドの姿が頭をよぎった。もし今、如月の求めに応じれば、彼を孤独から救えるだろうか。そして、私自身の想いも……。

 しかし……。

「如月くん」

 胸から彼の手を取って握る。如月が顔を上げた。

「君との約束を、果たさせてくれないか。もしその後でも、君の気持ちが変わらなければ……。その時に、改めて考えさせてほしい。頼む」

 彼は一瞬躊躇したようだったが、唇を噛み、下を向いてうなずいた。

「二十分。二十分だけ、待っていてくれ」

 互いに握った手を放し、私は立ち上がった。彼を毛布でしっかりと包み直し、居間を出て二階へ向かう。仏間に入って障子を後ろ手に閉め、大きく息をついた。部屋の明かりを点けて目を閉じ、丹田に意識を集中させる。

 一つ、二つ。三つ、四つ……

 ゆっくりと十まで数える。動悸が引いてゆく。

 霧が晴れて湖面が現れるように、精神が澄み始めるのを感じ、目を開く。

 ――よし。――

 自分に声をかけ、セーターを脱ぎ捨てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る