十一

十一 (1)


 一月の残りと二月は、恒例の重要業務に取り組むうちに過ぎていった。期末試験の採点と成績入力、学位論文審査、入学試験と進むのと同時に、文学部の中では、柳井と私が衝突したらしいという噂が広がっていった。樋口さんが推測したように、廊下に並んだドアの後ろで、息を殺してわれわれのやり取りを聞いていた教員たちがやはりいたのだろう。何かあったんですかと直接訊いてきた同僚に、私は、個人的な行き違いで、もう終わったとだけ答えた。彼は訳知り顔にうなずいた。

「柳井先生に、腹に据えかねる思いをした人は他にもいるんですよ。大変でしたね」

 学生に人気のある教員が、同僚の評価も高いとは限らないのだった。

 柳井と私の間には、冷たい平和とでもいった状態が成立した。会議の場などでは互いに感情を見せず、必要な会話だけを交わした。それに加えて、一連の事件前とは柳井の態度が変わったことも、私は感じ取っていた。彼は私と目を合わせるのを避け、廊下ですれ違う際にも距離を保つようになった。彼の中で、私は以前とは別の人間になったらしかった。



 慌ただしい学期末が、静かな春休みへとなだらかに移行していった。

 如月燎と岬裕真を自宅に迎える見込みがなくなった後も、盆点前の道具は一階和室の奥にひっそりと鎮座していた。道具を返すためだけに母の家へ行く気にはなれなかったし、あまりに早く返しに行って、どうだったかと質問攻めにされるのも避けたかった。何かのついでに、学生たちとの予定が合わなかったなどと、適当な説明を付けて返そうと思った。

 三月初旬の日曜、夕食を終えて後片づけをしていると、電話が鳴った。一度は春めいた気温がぐっと下がって、前日から続く雨が冷たく窓ガラスを打つ夜だった。時間が遅くなるにつれ、雨脚は強まりつつあった。

「如月です」

 ささやく声に、息が止まる。猫が足首にまとわりつき、私と受話器を見上げていた。

「これから、先生の家に行っていいですか」

「――如月くん」

 心臓の音が耳に響くのに耐えながら答えた。

「ぼくは、もう君とは会わないと誓約したんだよ。知っているだろう」

「先生。俺とも、約束しましたよね。お茶をするの、見せてくれるって」

 電話越しに、くぐもったアナウンスの声と、駅のホームらしい騒音が聞こえる。返事に詰まっていると、彼は訊いた。

「その誓約って、俺との約束より、大事ですか」

「…………。いや」

 一時間半ほどで着くと言って、電話は切れた。

 俺は堕落した、と受話器を置いて感じた。自分の感情のために職場の規律を破り、罰せられるべきところを守ってくれた上司を、今また裏切ろうとしている。

 だが同時に、正しいことをしているという確信もあった。

 禁を破ったと職場に知られても、命まで取られはしない。学部長や同僚の信用を失い、名誉は地に落ちるだろうが、それでも構わないと、奥底から突き上げてくる思いがあった。

 一階の六畳間へ行き、明かりを点けた。親族との行き来がもっとあった頃には客を泊めるのに使い、瑶子が劇団の運営に深く関わるようになってからは、彼女が資料類の保管に使っていた部屋だった。今は、他に行き場のない雑多な物がそれに置き換わっている。埃っぽい段ボール箱を廊下へ運び出し、部屋をできるだけ空にすると、畳をほうきで掃き、盆点前の道具を箱から出した。鉄瓶や茶碗をキッチンへ運んで洗う。

 続いて二階に上がり、四畳半の仏間に入った。和箪笥の前にひざまづいて引き出しを開け、一揃いの着物を取り出した。父の形見分けでもらったものだ。たとう紙の紐をほどいて開くと、西陣織の地紋が、電灯の明かりのもとで淡く、細やかな光を放った。色はさび利休りきゅうで、それに黒に近い焦げ茶の袴を合わせてある。父が五十代以降、母の誘いで茶席に出る時は、この組み合わせが多かったと母から聞いていた。

 茶席には菓子が欠かせない。抹茶は正月に買ったものがあるが、茶菓子の買い置きはない。考えるうち、息子の京都土産を思い出した。娘が、ネットで見たという和三盆糖の落雁らくがんを、帰省する時に買ってこいと言いつけ、息子は律儀に私の分も買ってきたのだ。茶も菓子も、開封しないままになっていた。

 キッチンへ戻り、カウンターの上に落雁の箱を見つけた。金銀の箔を散らした白い平箱に、金色のこよりがかけてあるのをほどき、中の粉が散らないよう慎重に蓋を開ける。半透明の薄紙の下に、幅二センチほどの干菓子が並んでいた。京都の四季を象徴する、桜、流水、もみじなど、みな様式化されながら精巧な作りだ。その中に、淡い紅と白の、梅の花の一組があった。ああ、これがいい、と思った。干菓子は一人の客に二つずつ出す。これを如月に出そう。

 準備をしているうちに、一時間半は過ぎた。外は風雨が激しくなり、今にも嵐に変わりそうだった。大粒の水滴が尖った響きで窓を打ち、風が庭木を揺らす音も、遠い海のうねりのように高まっては沈んだ。

 如月は本当に来るのだろうか。

 壁の時計を見上げると、十時近くを指している。疑問に思い始めた時、呼び鈴が鳴った。

 玄関へ向かう足元に、猫のチイコがついてきた。ドアチェーンを外すのももどかしく、サムターンを回して扉を開ける。

 戸口から冷たく雨が吹き込み、その中に、マウンテンパーカを着た如月が立っていた。目深にかぶったフードの頭からびっしょりと濡れ、雨粒がパーカの表面に筋を引いて流れ落ちている。フードの奥で、魂を失ったように蒼ざめた彼が、わずかに唇を開いて私を見た。瞳に生気が動いた。

「――よく来たね」

 その言葉を私は社交辞令ではなく、心から言った。手振りで促すと、如月は素直に玄関に入った。

 パーカを脱がせて玄関のフックにかける。彼のカーキ色のズボンの、膝から下にも水がみ込んで、茶色っぽい深緑に変わっていた。居間に通してソファに座らせると、チイコは食器棚に飛び乗って私たちを見下ろした。私はタオルを持ってきて如月の前にかがみ込み、雨水を吸い取るように膝下を叩いた。

「これじゃ、風邪を引くな。ドライヤーで乾かすか、息子のズボンでも貸そうか」

 如月は首を振り、私の手を引いて止めさせた。引っぱられるままに横に座る。彼の手は雨の水気で、冷えて赤かった。

「――岬くんはどうした」

 私は訊いた。

「裕真……岬は、明日の午前の便で、羽田から発ちます」

 家に来てから、初めて彼が口にした言葉だった。

「今日、アパートから荷物を送り出して、部屋も引き払いました。今夜は、空港の近くのホテルに泊まっています」

「今日は一緒にいられたの」

「先生に電話をかける前まで、一緒にいました」

「そう。明日の見送りは?」

「行くかどうか、迷ってるんです……。明日は研究室の皆が来ることになってるから、人前で取り乱したら、って思うと……。岬は俺とのことなんか、何もなかったみたいに振る舞うんだろうな、そんなところを見てて正気でいられるだろうかって、怖くて。でも、行かなかったら、次はいつになるかわからない、下手したらもうこのまま会えないかもしれない、って……」

 言葉の終わりが途切れた。湿気を含んで艶を増した髪が垂れ、彼のうつむいた横顔を隠した。

「ご自宅には、何と言って出てきたの。君がここにいるのは、知っている?」

「友達の家に泊まるかもしれないと言ってあります」

「それなら、落ち着くまでここでゆっくりすればいい。でも、まずは身体を温めないと、正常な判断ができないよ。待ってなさい」

 立っていって、押し入れから毛布を探してきた。ソファに戻って如月の身体を包んでやると、彼は涙ぐんだ目で私を見上げた。私は微笑みかけた。

「息子がサッカーの試合に負けて、帰ってきた後を思い出すよ。中学の時だった」

 如月は顔を逸らした。キッチンでマグカップに白湯を入れ、戻ってきた私に、彼は言った。

「俺……。先生に、言わないといけないことがあるんです」

 ローテーブルにカップを置き、彼に飲むように勧めてから元の場所に座った。

「何だい」

「柳井先生の件。俺が正式相談に上げていれば、朝永先生をあんな目に遭わせずに済んだのに、できなくて。本当に、すみませんでした」

「ぼくの一存でやったことに、君が責任を感じる必要はない。相談員に事情を話したくなかったんだろう。わかるよ」

「先生……。当たってるところもあるけど、違います。まだ、先生の知らないことがあるんです」

「それは、どんなこと」

「他の相談員なんてどうでもよくて、俺は、朝永先生に聞かれたくなかったんです。……柳井に付け込まれたのは、俺のせいです。高校の頃、馬鹿やってた報いなんです」

「馬鹿やってた、とは?」

 穏やかに尋ねながらも、胸の痛む予感があった。

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