十 (4)

 私たちはコーヒーを持って、キャンパスの中央にほど近い池の方へ歩いていった。池を囲んで自然を生かした庭園が造られ、学生や教職員の憩いの場になっているのだった。寒さに息が白く変わる中、庭園に近づくと、わずかに葉を残したかえでや、どんぐりのなる大きな木が見えてきた。枝が数本池の上に伸び、水面に姿を映している。もっと気温が高く、木々の葉が日差しを受けてさまざまな濃淡のみどりに輝く季節には、その下のベンチに場所を取るのは至難の業だ。しかし、冬枯れの今はどのベンチも忘れ去られ、打ち捨てられたようにくすんでいた。その一つの座面から落ち葉を手で払い、二人並んで腰を下ろした。

「昨日、樋口さんと如月くんが来てくれたおかげで、あれ以上エスカレートせずに済んだ」

 私は言った。

「あなたの声で我に返らなかったら、ぼくはどうしていたかわからない。ありがとう」

「わたしが行かなくたって、じきに誰か通りかかったわよ。研究室の中で、騒ぎを聞いた人もいると思う。それに、如月さんが呼びに来てくれたおかげよ……。朝永先生と柳井先生が大変だから来てくれって言われた時、わたし、給湯室で電子レンジを使ってたの。研究室の電気をつけたまま不在にしてたから、彼、フロアを探し回ってくれたみたいよ」

「彼にもショックを与えてしまったな。助けるつもりが、教員への信頼を失わせるようなことをしてしまった。……ぼくは、学生相談員は辞めようと思う」

「そんな。朝永さんに代われる人なんて、いないじゃない」

「性的マイノリティ当事者でなくても、勉強すれば仕事はできるよ。ぼくは自分の感情を職務に優先させた。相談員失格だ。……樋口さん」

 私は彼女の顔を見た。

「今回の件に同席して、如月くんについて聞いたことは、口外しないと約束してほしい。ぼくは、柳井さんがああいう話をあなたや佐伯先生にしたということでも、許せない気持ちでいっぱいなんだ」

「もう忘れたわ」

 樋口さんはあっけらかんと言った。

「あれは、柳井さんのファンタジーを聞かされたんだと思うことにしてる」

「正しい解釈だよ」

「でも、気になるでしょうから、約束する。天地てんち神明しんめいに誓って、誰にも言いません」

 彼女はアメリカ式に、右手を上げて宣誓のポーズを取ってみせた。思わず微笑が洩れた。

「ありがとう。樋口さん」

 手にした容器の蓋を外し、コーヒーの湯気に唇を触れていると、彼女が言った。

「朝永さんは、如月さんのことばかり心配しているのね。一緒に飲みに行ったりして、仲良くなったし、放っておけなかったのはわかるわ。でも、佐伯先生の言う、特別な思い入れがあるわけじゃないんでしょう。柳井さんの話は、言いがかりなんでしょう?」

「――――」

「そうなんでしょう?」

 風が周囲の木立をざわめかせ、池に枯れ葉が舞い落ちて水紋を描いた。同心円状の波の輪がいくつも水面に広がり、互いに重なり合っては消えていく。

 心が、ある一点に向けて凝縮していき、やがて疑いようもなく、はっきりとした思いへと結晶した。

「樋口さん。……同僚としてではなく、純粋に、友人として答えてくれないか」

「いいわよ。何」

「最後に真剣な恋をしたのは、いつ?」

 樋口さんの目が見開かれ、顎が落ちた。彼女の視線を正面から受け止めて返答を待つ。

しばし絶句した後、樋口さんは顔を逸らして地面を見つめ、ぶつぶつと言い始めた。

「研究者たるもの、安易な一般化やステレオタイプは、雑談といえどもつつしむべきである……」

 彼女は勢いよくこちらを向いた。

「でも言わせて。男って、本当に、馬鹿ねっ」

 私はうなだれた。

「みいんな、若くてきれいな子に目がないの。自分の年も、相手の性別もお構いなしで、呆れ果てるわ」

「あなたがた女性が、ぼくら男の同性愛者に、ある種の期待を抱いているのは知っているよ。他の男どもとは違うんじゃないかってね。だが、残念ながら、その期待に応えることはできないようだ」

 樋口さんは首を横に振りながら聞いていた。

「ぼくは、柳井さんよりは分別があるつもりでいた。如月くんへの気持ちは隠し通すはずだったのに、いつの間にか蓋が外れて、溢れさせてしまったんだ」

 私はコーヒーの水面に視線を落とした。まだほのかに、白いものが立ち上っていた。

「樋口さんは、ホーソーンの『緋文字』を読んだことはあるかい」

「昔ね。大筋だけ憶えてるわ」

「あの中で、ヘスターは姦通の罪でさらし台に立たされても、恥じずに堂々としていただろう。相手の牧師が罪悪感に悩むあまり、心身を滅ぼしていくのに比べ、彼女ははるかに強くて魅力的だ。あれを読んだ者は皆、自分はディムズデイル牧師よりヘスターでありたいと思うだろう。……ぼくは、ヘスターのように、さらし者になってもいいと思っていた。でも、もうこの世にいない父の力で、不本意にも守られてしまった。柳井さんに、特権階級だと罵られたよ。結局、彼の認識にも、一抹の真実はあるのかもしれない」

 顔を上げて樋口さんを見た。

「あなたの言う通り、年甲斐もなく、馬鹿な話だ。だが、自分を抑えられない瞬間が来るのが、恋だとしたら……。あなたにも、憶えがあるんじゃないかと思った」

「わたしはね、朝永さん」

 彼女はため息とともに言った。

「結婚しないで生きていくって決めた時から、真剣な恋なんてものには、縁のない人間になったのよ。恋をして、真剣なお付き合いをするってことは、結婚を考えるのと同じだって信じてた。……女は結婚とキャリア、両方を手に入れることはできないから、どちらかを諦めるしかないと思ってたの。今なら二十代の自分に、結婚がゴールじゃない恋愛もありじゃないかって言ってあげられるんだけど、真面目すぎたのね。時代も違ったし」

「そういう感情から、あなたが無縁だったとは思わないよ。書いているものを見ればわかる」

「そりゃ、何もなかったわけじゃないわ。でも、好きになるのって手の届きそうにない人だったり、もう相手のいる人だったりでね……。結局、本気になる前に、自分を諦めさせてばかりだった。わたしがもっといい女で、熱心に言い寄ってくれる人でもいたら、考えが変わったかもしれないけどね」

 最後は冗談めかした彼女に、私は言った。

「あなたはいい女だよ、樋口さん。ぼくはずっとそう思ってきた」

 樋口さんの唇が開きかけ、言葉を忘れたかのように止まった。私の表情から、茶化しているのではないと伝わったようだった。目元に、優しい潤みが浮かんだ。

「ねえ、同じことを、二十年前でも言えたと思う?」

 彼女は笑った。



 文学部長の決定は、樋口さんを通じて如月燎にも伝えられた。金曜日、期末試験の補助をしに来た如月にいつもの笑顔はなく、言葉も少なかった。

「朝永先生にも文学部にも、ご迷惑をおかけしてすみません」

 彼は頭を下げた。

「君のせいじゃない。みな教員側の責任だよ。こちらこそ、嫌な思いをさせて、申し訳なかった」

 前の週までとは状況が一変し、もう授業後に茶を淹れて雑談することも叶わないと知っていながら、二人とも感傷的になるのを避けて、期末試験の実施に取りかかった。如月は今学期いつでもそうだったように、試験問題の配布、試験の監督と、非の打ちどころのない仕事ぶりを見せた。

 試験を終えて教室から学生が全員退出し、答案の枚数を確認して後片づけを済ますと、もう如月の仕事は残っていなかった。

 私たちがともに時間を過ごすための口実も、もはやなかった。

「一学期間、TAを務めてくれてありがとう」

 彼に向かい合ってねぎらった。

「君ほどよく働くTAはこれまでいなかった。心から感謝しているよ」

「俺も、先生に感謝しています」

 彼と私はいっとき、互いを見つめた。

「――ぼくは、学生相談委員会に辞表を出した」

 如月の顔に一瞬驚きがよぎり、それから質問を抑えつけるかのように消えた。

「後任が決まるまで、しばらくかかると思う。だが、もし、君が岬くんのことや、他のことでも、誰かに話を聞いてもらいたいと思ったら、樋口先生に頼るといい。彼女は信頼できる人だ。相談員の肩書がなくても、君が秘密にしておきたいことは、絶対に守ってくれるだろう」

 彼は目を伏せてうなずいた。

 二人で教養部教室の建物から出た。玄関の外で、最後に一言、声をかけた。

「元気で」

 彼の睫毛が震えて、言葉の気配が唇に上った。声は出てこなかった。

 如月は深く頭を下げると、こちらを見ずに背を向け、真冬の光に乾いたキャンパスを歩き出した。私はその場に佇み、如月が工学部の方向へ――彼の属する、遠い未知の土地へと帰っていくのを、その姿が行き交う人々の間に紛れ、建物の向こうに隠れてしまうまで見守っていた。 

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