十 (3)
ノックをし、返事を待たずに学部長室に入った。
「――ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「柳井さんの言い分は、一通り聞きました」
学部長は言った。白髪交じりの眉や四角く張った顎からは、冗談好きで温厚な普段の表情が消えている。代わって、尋問官の姿勢がそこにあった。
「朝永さんの方からも、こういうことになった経緯を説明してくれますか」
私は如月の性的指向や、彼の柳井との過去には触れないよう注意しつつ、要点を話した。彼がTAとして私のところに来たこと、柳井が彼に交際を持ちかけ、断られてもなお押そうとしていたこと、事態の緊急性が高いと考えられたので、如月の指導教員である宮園准教授の協力を仰いだこと。
「……柳井先生の挑発に乗って手を出したことは、私の失態です。その点については、深く反省しております」
「柳井さんにその気があれば、あなたを暴行罪で警察に突き出せる行為ですよ。直前に、口にするのもはばかられるような言葉で柳井さんがあなたを
「学生相談員の業務でという意味でしたら、違います」
「では、個人的に助けを求められたのですか」
「――いえ。……」
学部長は続きを待つ顔で私を見た。樋口さんの視線を横顔に感じる。
「如月くんの話や状況から判断して、私が自分で動くことに決めました」
「――朝永さん」
学部長は長い息を吐いた。
「柳井さんは、あなたがその学生に
「柳井先生と如月くんの仲? 柳井先生が、一方的に彼に迫っているだけですよ」
「柳井さんは、大学入学以前の彼と交際していたことがあると言っています。たまたま再会して、よりを戻そうとしていたところに、朝永さんが邪魔しに来たと」
「嘘です――」
言いかけて、口を閉じた。一夜の関係でも、交際と強弁できなくもない――それに、実際の二人の関係がどうだったか、私は柳井との短い会話の内容以外には知らないのだ。
「質問に答えてないですね、朝永さん。その学生に、柳井さんが言うような、特別な思い入れがあっての行動だったんですか?」
わからなかった。望まない形で教員に接近されて困っている学生がいれば、それが如月でなくても、私はやはり助けたいと考えるだろう。しかし、本人からの相談がない状態で同じようにしたかどうかは……。
「佐伯先生。誓って申し上げますが、私は如月くんに対し、職務上で許される以上の言動はしておりません。それは、如月くんも証言してくれると思います」
「彼には、樋口さんが事情を訊いてくれました。朝永先生は悪くない、と言うだけで、あとは貝になっているそうです。ぼくには、彼があなたをかばっているようにも感じられるんですよ。……しかし、学生の受け止め方はどうあれ、教授のあなたが、准教授の研究計画を停止させ、抗議に対して暴力で応えたというのは、立派なパワハラです。今回のことは微妙な問題も含みますから、ぼくの記録のみに
「待ってください、佐伯先生。なぜ教授会にかけないんですか。如月くんに対する柳井先生の行為は、懲戒の対象としてもいい悪質なものですよ。柳井先生も私も、性的マイノリティであることは公表済みです。そのことが議論の妨げになるとは思いません」
佐伯学部長は視線を逸らして黙った。再びこちらを向いた時、彼の口調は、不都合な真実を学生に教え諭すかのようだった。
「柳井さんの対外的印象を落とすのは、文学部にとって得策ではない。人文学の存在意義自体が問われる時代にあって、彼のようなスターは貴重なんです。学生の人気も高いし、外部資金を持ってくるのも上手い。大学上層部の、学部への評価を下げないためにも、この件は表に出すわけにいきません。大体、彼の懲戒を
「構いません」
腹の底から、
「教授会にかけてください」
「朝永さん」
佐伯学部長の声にそれまでと違った響きを聞き取り、私は口をつぐんだ。
「あなたをさらし台に立たすような役目を、ぼくに引き受けろと言うんですか」
「―――」
「そんなことをすれば、ぼくはあなたのお父上に顔向けできない」
父の一番弟子、スコットランド文学研究の
学部長からは、今後一切、如月燎とは接触しないとの誓約を始末書に書き入れるよう求められた。柳井にも同じ指示をするとのことだった。
今週金曜日の授業だけは除外してほしいと頼んだ。如月には仕事をして給金を受け取る権利がある。期末試験という重要な回でもあり、学期の締めくくりに彼の力が必要だと主張した。訴えが聞き入れられて学部長室を出る時、事情聴取のオブザーバーとして同席していた樋口さんも、任を解かれて一緒に出た。
教員の個人研究室が並ぶ廊下まで歩いたところで、どちらからともなく互いの顔を見た。樋口さんが言った。
「コーヒーでも、飲みに行かない?」
「いいね。行こうか」
それぞれの研究室でコートと財布を身に着け、文学部玄関で再び落ち合って、構内のスターバックスに向かった。カウンター前の列で順番を待つ間、樋口さんが訊いた。
「スタバが初めて日本にできた時のこと、憶えてる?」
「憶えてるよ。ずいぶん報道されたもの。もう、十何年か前になるかな」
「わたし、オープン初日に銀座まで行って並んだのよ。アメリカで何度も使ってたから、嬉しくて。目に入るもの、耳に入るもの、店の匂いまで何もかも、アメリカを切り取って運んできたみたいだった。まさか自分の職場の中にできるなんて、当時は思ってもみなかったわ」
樋口さんはその九〇年代半ばの一日が今、目の前にあるかのような笑顔を見せた。それから声を落として、
「あの頃はまだ、アメリカのものが何でも素敵に見えたのよね」
と言った。
店内はほぼ満席だった。テラス席なら空きがあったが、私は樋口さんに言った。
「もし、樋口さんが良ければ、周りに人の耳がないところに行きたいんだけど、どう」
「構わないわよ。わたしもその方がいいと思ってたの」
彼女は答えた。
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