十一 (3)


 居間に戻ると、如月はソファの上で毛布にくるまり、腕に顔を伏せて横になっていた。肩の上に、チイコが腹這いになっている。――眠ったかな。――と思った瞬間、猫が耳をぴくりと動かし、起き上がって床に飛び降りた。如月も寝返りをうって目を開いた。和服姿の私に気づき、驚きが顔に浮かぶ。彼はソファに起き直り、声を上ずらせた。

「先生、すごい。別人みたい」

 先ほどの荒ぶる妖婦の面影は退しりぞき、子どものように純粋な好奇心が輝き出る。私は微笑みで返した。

「準備ができたから、来てください」

 奥の六畳間へ案内する。中に入ると、如月は畳に並んだ道具を見回した。正式な作法では、客が先に座っているところに、亭主――客をもてなす役の者が、茶道具の盆を持って後から入る。今夜は客が如月だけで、もの寂しい部屋にひとりで放置しないよう、すべての道具をあらかじめ運び入れておくと決めていた。

 部屋の中央には、瓶掛びんかけに五徳を据え、南部鉄瓶を載せて置いてある。鉄瓶には熱湯が入っている。茶碗や茶筅、棗などの道具一式も黒漆塗りの丸盆に載せ、亭主の座る側に用意してある。その対面を指し、座るよう勧めた。彼が慣れない動作で正座するのに続き、私も座った。

「客の作法を勉強する時間は、ありましたか」

 と訊くと、如月は気恥ずかしそうに答えた。

「ネットの動画を一回見ました」

 彼がすることの要点を口頭で復習してやってから、尋ねた。

「如月くんは、一期一会いちごいちえという言葉を知っている?」

「聞いたことはありますが、意味はよく知りません」

「一期というのは人の一生、一会は一度きりの出会いを意味するんだ。もし君とぼくが、またいつかこうしてお茶の機会を持つことがあっても、それは今とは違う時間だし、君とぼくも今のぼくらと同じではない。だから、どの茶会もみな、二度とは来ない出会いの場だと心得て振る舞うようにという、茶道の哲学なんだよ。……如月くん」

 私は居住まいを正した。

「ここで、この時間、ぼくは全身全霊を君に捧げる。この茶席で、ぼくの身体も心も、存在の全部が、君だけのためにある。……君の求める形とは違うことも、君の愛する人の代わりにはならないことも、わかっている。それでも、ぼくは今、君のためにできることを、精一杯したいと思っている。認めてくれるだろうか」

 如月が背を伸ばし、私の顔を見た。無造作に重ねていた両の手が離れ、膝に置かれる。

「――はい」

 彼の返事を聞いて、私もうなずいた。

「では、始めます」

 かすかに、風雨の音は続いている。

 ボストンのあの時も、寒い夜だった、と思い出す。暖炉の火がマッキンタイア家の人々の顔を照らし出し、四組の瞳の中で揺らめいていた。私たちの座る床には炎の輝きとフロアランプが光の円を描き、その縁は暗がりに溶け、柔らかな闇が私たちを包んでいた。アーネストの眼鏡に映った炎は砕けて、細かな星の破片になった。彼の髪に宿る光と影が対照を成し、赤褐色の闇に金の糸が輝いて見えた。

 如月の髪は、風雨の中を歩いてきたのと、ソファに寝転がっていたせいで乱れている。それでも、その艶やかさと弾むような健やかさは、生命力に溢れた年頃ならではのものだった。彼の髪もまた、和室の照明の下に光っている。アーネストのそれよりも優しく、風にそよぐ若い植物の穂のように。

 三十年前は英語でした解説を、今夜は日本語でする。ボストンの時と同じように、道具の名前と役割、動作の意味などを説明するが、もう書いて憶える必要はない。すべてが自分の中にあり、長い教育経験で培った、安心と自信もあった。

「……道具を拭くのも、茶筅を洗うのも、汚れを取るためじゃないんだよ。みな、きれいにしてあるからね。客の前でそういう動作をするのは、象徴的な理由なんだ。大切なあなたのために、清めたものだけを使います、という気持ちの表現だね」

 話を終え、点前に入ることを告げる。袴の腰から帛紗ふくさを外してたたみ、棗を手に取った。黒い漆塗りの地に、蒔絵で金の竹の葉を描いた品だ。それを帛紗で拭いていく。

 私の手元に視線を注ぎ、如月はかしこまっている。唇を真一文字に結んだ顔を見て、声をかけた。

「緊張しなくていいよ。茶の湯は楽しむもので、忍耐力を試すものじゃないからね」

「行儀よく座っていられるか、試されてる気がするんですよ」

 如月は言い、肩をほぐすように上下させた。

 棗を盆に戻し、帛紗をさばき直して、茶碗の上から茶杓ちゃしゃくを取る。作法に従って清めるうち、雨風の音ははるか遠くに退いていった。

 世界にこの空間だけが宙づりになって、如月と私がその中に向かい合っている。私たち二人の舞台が、ここに出現していた。

 所作を憶え、人に言葉で説明するすべを身に付けるのに精いっぱいだった習い始めの頃。アーネストを失望させたくない一心で練習を繰り返した時代。彼と離れた後は、道具に触れるのも稀になっていた。それでも、雨だれがコップを満たしていくように、積み重ねられた経験はいつしか、知識だけの理解を身体の実感を伴うものへと変えていった。血肉に溶け込んだ記憶が、目の前にいる人を愛おしむ心と重なり、流れとなって身体を動かす。

 極限まで切り詰められた所定の台詞を除き、この舞台に脚本はない。亭主と客は、日常の人間関係からも、上下の別からも自由な平面で、ともに一つの思いを遂げようとする。

 果てしない時空の波間で、奇跡のように互いと出会ったこの時を、特別なものにしようとする思い。

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