九 (3)

「冬休み、少しは岬くんと過ごせそうかい」

「はい。去年までは岬が必ず帰省してたんで、休み中はあまり会えなかったんですけど、今度、初めて東京で年越しするっていうんです。それで、一緒にどこか行こうって話をしてるんですよ。初詣とか」

「それはいいね。岬くんにも、思い出になるだろう。下町の年末年始を体験させてあげるといい。江戸の文化が残っているから」

 浅草寺など、下町の名所についてしばらく話した後、ついでのように訊いてみた。

「岬くんとパブに行った時、柳井先生からメールが来ただろう。あの用事はもう済んだの」

「済みました」

 如月がうなずく。続いて、あっさりと言った。

「付き合ってくれって言われたんですよ。普通に断りました」

 私は思わず音を立ててカップをソーサーに置いた。

「いつ?」

「水曜日。一昨日です」

 柳井が私の研究室に来て、如月と私の間にくさびを打ち込もうとした後のことだ。

「それで、どうする?」

「何を?」

「柳井先生のことだよ。教員として、やってはならないことをしている。君の学生生活に差し障りがあるなら、正式な相談ルートに載せて、君に近づかないよう、しかるべき措置を取ることもできる」

 如月は肩をすくめた。

「必要ないんじゃないですか。こっちの建物にはTAの仕事でしか来ないし、柳井先生と接点ができるようなことって、もう修了まで何もないですから」

「大丈夫かね。粘ってこないだろうか」

「たぶん。ぼくはそういう関係にはなりたくないって柳井先生に言ったら、説得しようとしてきたんですよ。ぼくらはすごく相性がいいと思うとか、大人同士の付き合いに大学がルールを定めるのは間違ってるとか。でも、もう決まった相手がいるから、他の人と付き合う余地はないと言ったら、黙りました。ちょっと嘘が入ってますけど、効いたからいいですよね」

 如月は、してやったりというふうにほくそ笑んでみせた。

「では、もし彼がまた君に迷惑をかけるようなら、相談してください。対処するから」

「ありがとうございます」

 彼は軽く頭を下げた。表情からして、何か深刻な状況を隠している様子はない。

 柳井は、八年前に彼と会ったことは言っていないのだろうか。

「……柳井先生のことは、いつから知っている? 一年生の必修授業?」

「いえ。その年は、柳井先生は在外研究で、いなかったと言ってました。今年の一学期にTAで会ったのが、初めてです」

「そう。……」

 あまり突っ込んだ質問をして不審がられるのを避け、そこでその話はやめた。柳井はこのまま過去のことは黙っておくつもりか、それとも明かすタイミングを計っているのか。これで如月を諦めてくれれば、それで済むのだが。

 ごちそうさまでした、と如月が身体を伸ばした。

「次は年明けですね」

 彼は帰り支度をして立ち上がった。私も席を立ち、出口へ向かう彼に言った。

「如月くん。先日言っていた、わが家でのお茶の話だけどね。まだ、関心はある?」

「もちろん。約束じゃないですか」

「冬休みの間に、母に稽古をつけてもらうことになったんだ。期末試験期間が終わったら、岬くんにも声をかけて、一緒にいらっしゃい。君らの都合の良い時でいいから」

「ほんとですか」

 如月の明るい瞳が輝く。

「絶対行きます」

 世のけがれを知らぬベアトリーチェのような笑顔を見せ、廊下を去る彼の背を見送って、静かに扉を閉めた。

 これでいい。日一日ひいちにち、別れの近づく彼らのために、私のできることをする。

 柳井の見た如月が不良だろうが、淫魔だろうが、知ったことではない。ただ私の目に映り、耳に聞こえ、心に響くことだけが本当の彼だと信じて、如月を支える。

 岬とも、約束したのだ。けして彼を見捨てない、と。



 正月休み、藤沢の母の家を訪れ、盆点前の練習をした。母方の血縁がこの周辺に多いこともあって、父の退職後に夫婦で引き移った家に、母は一人で暮らしている。私が学生に盆手前を見せるというので大層張り切り、一緒に手順を復習する間、私がすべての所作を正確に行えるよう、細心の注意を払って見てくれた。

「お父さんがまだお元気で、惇也にお茶を点ててもらったら、どんなに喜んだでしょうね」

 と母は言った。

 練習のあとは、母が長年かけて集めたささやかなコレクションの中から、茶道具を一緒に選んだ。自宅で行う教育目的の盆点前で、気軽な集まりとはいえ、茶道具は正式な茶席と同様の心遣いで選ぶべきだという考えで、母と私は一致していた。あまりに凝った意匠や高価すぎる品は避けて、茶の湯で使う典型的な道具がどのようなものか、伝わりやすいものを選んだ。茶碗は若い人たちの手に似合うものという観点から、無地のものにした。

 東京に戻ってから、抹茶を買いに日本橋の百貨店へ出かけた。初売りの時期に百貨店を訪れるなど、長年なかったことだ。瑶子は毎年、初売りに行くのが恒例で、私もたまに付き合っていたのだが、彼女が家を出るより何年も前に、そんな機会もなくなっていた。

 販売員の声と客のざわめきが飛び交う食料品フロアの一角に、京都を本店とする茶の専門店があった。販売員の女性に声をかけ、どの抹茶が良いか相談するうち、気分が浮き立ってくるのを感じた。如月に求められての準備とはいえ、彼と岬を家に迎えるのは楽しみでもある。こんな気持ちも、いつ以来か思い出せないほど久しぶりだった。

「私どもの商品は、どれも申し分のないお品ばかりでございますよ」

 販売員は太鼓判を押し、中価格帯の一品を示した。

「このあたりなら、ご自宅で楽しまれても、お茶席でお使いになっても、十分な品質です」

 彼女の推薦に従って、その品を買い求めた。家で紙袋から取り出し、手のひらに載るほどの大きさの、銀色の缶を眺めた。プラスチック製の蓋は黒く艶があり、おそらく漆塗りのなつめを模したものだろう。缶には和紙のラベルが貼ってある。柔らかな白色の地に深い緑色で、店の商標とともに、店名、創業年、使用方法などが、それぞれ別の字体で刷られている。店の所在地や内容物の説明も、英語で印刷されていた。その一つ一つに、量産品でありながら、工芸品のような細やかな配慮が行き届いていた。

 休み明け早々、教務会議で柳井准教授と同席した。会議室に集合して顔を合わせた時は、互いに通りいっぺんの挨拶をしただけだったが、会議が終わると彼の方から近寄ってきた。失恋から早くも立ち直ったのか、意気いき軒昂けんこうな表情だった。

「朝永先生。如月くんがTAで来るのも、あと少しでしょう」

「そう、ぼくの通常授業は今週までで、来週の期末試験で終わりですよ。君の授業も、大体同じじゃないの」

「ぼくの方は、もうちょい後までかかりますけどね。学内競争資金が新しく取れたんで、準備に忙しくなりそうですよ。新年度からのプロジェクトなんですけど、内容、聞きたくありませんか」

「君のやってることはぼくには斬新すぎてね。また成果報告の時にでも聞かせてもらうよ」

 廊下に出た私を、柳井は追いかけてきた。

「工学部の先生との協働企画なんですよ。如月くんのいる研究室の」

 歩を緩めて柳井を見る。こちらの動揺を誘おうとしている目つきだ。手を振って退しりぞける。

「何を期待しているのか知らないが、如月くんは君など相手にしないよ」

 冬休みの前、如月はしっかりと、柳井の誘いを断ったと言った。望まない接近に、彼自身の力で対処したのだ。ひとりでは解決できないとなれば、彼は私を通して、正式な学生相談に上げてくる。

 背後から、柳井の声が聞こえた。

「朝永先生には、もう手出しはできませんよ」

 私は無視して歩み去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る