九 (2)


 ――燎は、大学に入る前、生活が荒れてた時期があった。――と岬は言った。

 彼が如月から、どこまで聞いているのか不明だが、おそらくは柳井の言っていたのと同時期のことを、婉曲に伝えていたのだろう。

 身体を売るようなことをしていたというのが本当としても、何がそんな行動へと如月を駆り立てていたのかが見えない。これまでに聞いた話では、如月はそこそこ豊かな家庭の出で、親の家から大学に通っているはずだ。稼がなければ生きられない環境ではない。

 何か家族に言えない事情で金が必要だったとしたら? それならまだ理解できる。けれども、柳井が解釈したように、男との肉体関係、あるいは単に刹那的な欲望を満たすことが、如月の目的だったとしたら……。

 私の家で二人きりになった時の如月の、扇情的とも取れる言葉、またアイリッシュパブでの、人を誘惑するかのような仕草が思い出された。私が彼に惹かれているせいで、何でもないことに性的な意味を読み込んでしまったのだと考えていたが、あれは彼の一種の病癖か、魔性の現れではなかったか。

 如月は柳井の前でも、あんなふうに振る舞ったことがあるかもしれない。樋口さんにしたように、柳井に甘えかかったり、パブの前で私に向けたような視線を投げ、意識もせぬまま誘惑者になっている……

 ――お前は、あの柳井よりも、自分に人を見る目がないと思っているのか。――私は自分を叱った。授業のたびに如月に会って、言葉を交わし、笑顔を見、その働きぶりを享受しているのに、柳井の悪意ある言葉に影響されて、如月への評価を変えようというのか。

 早く金曜日になれば、と願った。金曜日が来て、再び彼の屈託ない微笑みを見れば、そんな疑いはきっと消える。

 そうでなければ、この暗い疑念が毒となって私の身体を浸し、醜い指を床に這わせて如月を捉え、彼の肌をも青黒く染めていきそうだった。



 金曜日、教室のドアを開けると、教卓の前で数人の女子学生が如月を取り巻いていた。私を見て散り散りに席へ戻る。如月と挨拶を交わして訊いた。

「小テストの採点に、質問でもあったの」

「いえ、雑談ですよ。昨日はクリスマス・イヴでしたからね。誰と何してたかとか」

 彼が片目をつぶってみせる。いつもと同じ、くつろいで如才ない態度だ。柳井の語ったことが脳裏をかすめる。先週、柳井は如月にしつこくメールを送っていたようだが、二人の接触はなかったのだろうか。

 ――雑念に捉われるな、と自分に言い聞かせ、ことさらに大きな声で、学生たちに授業開始を告げた。

「ラパチーニの娘」は後半に入っている。青年ジョヴァンニが初めてラパチーニの庭園を訪れ、老医師の娘、ベアトリーチェと言葉を交わすシーンを読む。


「お願いですから、あなたシニョール。世間がわたしにどんな知識があると噂していようとも、信じませんように。わたしのことは、あなた自身の目で見たものだけを信じてくださいな」

「そして、ぼくはこの目で見たものはすべて信じるべきなのでしょうか? ……いいえ、お嬢さんシニョーラ、そんな要求では足りません。何も信じるなとぼくに言ってください、あなた自身の唇から出る言葉のほかは」

 …………

「あなたにそう命じましょう、シニョール! ……わたしについて想像したことがおありなら、それはみなお忘れください。五感が伝えるものには合っていても、本質においては間違っているかもしれないのですから。でもベアトリーチェ・ラパチーニの唇から出る言葉は、心の底からのもの。あなたが信じていいのは、それだけですわ」


 しかし、美しいベアトリーチェの呼気に、青年は芳醇な香りとともに、吸い込むのを躊躇する何かを感じ取る。それが毒気であることに薄々気づきながら、彼は彼女の魅力に抗えず、やがて彼自身が毒を発する存在へと作り変えられていく。ベアトリーチェは自身の心に偽りない言葉を語っているのだが、それを信じた先に青年を待っているのは、魔物への転落と人間社会からの放逐だ。

 何度も読んだ作品のはずなのに、今まで目に留まることのなかった含意が台詞の一つ一つから浮かび上がってくる。

 いつになく疲れて授業を解散し、後片づけをしていると、如月が言った。

「先生、今日はあまり、体調が良くなかったですか」

「そう見えたかい」

「ええ、……全体に、いつもより反応が遅いというか、集中しづらい理由があるみたいな感じがしたんですけど。大丈夫ですか」

 学生に心配されるようでは、教師失格だ。

「うん。年末だと思って、気が抜けてるんだろう」

「らしくないですね、先生。今日、研究室に行っても迷惑じゃないですか」

「歓迎するよ。ぼくも少しゆっくりしたい」

 研究室に戻って、秋摘みのダージリンティーを淹れた。二人分のカップに濃い水色すいしょくの紅茶を注ぐと、そこから室内全体に、甘く熟れた落ち葉のような香りが満ちていった。

「うわ、何これ、すげえ。酔いそう」

 一口飲んで、如月は片手を額にやり、眩暈を起こした仕草をしてみせた。

「ぼくのいちばん好きな種類だよ。贅沢だから、しょっちゅうは買えないけどね」

「こんなんあるんだ。酒みたい」

 紅茶に没頭している如月に向かい合い、こちらもカップから立ち上る香気と温かみを顔に感じているうち、尖った神経は次第に安らいでいった。

 ――自分のよく知っている如月がここにいる。それでいいではないか。何を詮索する必要がある。――

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