九 (1)


 パブへ行った週末が終わり、年内最後の授業週に入った月曜日、昼休みに研究室ドアをノックする者がいた。食べ終わった弁当の箱に蓋をし、席を立ってドアを開けると、柳井准教授だった。仕事用にしてはくだけた形の、紺の別珍スーツを着て、赤紫のシャツに紺地のネクタイを締めている。

「今のフランスはそういう色合わせが流行っているのかい」

「嫌味ですねえ、皮肉ですか」

 と柳井は喉奥で笑う。

「別に批判はしていない」

「スタイリストの最新おすすめですよ。彼女の見立てだと、こういう強くて深い色がぼくには似合うんだそうで。……今、数分お時間をもらってもいいですか」

「食後の茶を飲むところだけど、それでも良ければ」

「問題ありません」

 柳井はさっさとソファに陣取り、ローテーブルを押しのけて足元の空間を広げた。構わず緑茶を急須に入れ、ポットの湯を注ぐ。机の前に立って抽出時間を計っている間に、柳井が切り出した。

「先々週の土曜日、朝永先生のご自宅に如月くんがいたんですってね」

 振り向いて彼を見た。口元では儀礼的笑みを作っているが、目の表情は友好的でない。

「そうだよ。それが何か」

「堀川さんから聞きましたよ。ゼミの手伝いに使われてたんですって?」

「使われるとは、穏やかじゃないね」

 チェアに座って彼の方に身体を向ける。堀川はゼミの参加者の一人で、如月が私の小姓みたいだと言った女子学生だ。私の指導学生なので、柳井の授業を受講しているのも知っていた。

「堀川さんは、如月くんと楽しそうに話していた。そんな言い方はしないと思うが」

「ええ、誤解されると困りますね……。彼女の話を聞いて、ぼくがそう解釈しました。如月くんは、ゼミの間、台所仕事を全部引き受けていたそうじゃありませんか」

「その通りだが」

「当たり前みたいな言い方をしないでくださいよ。おかしいじゃないですか。TAの仕事の範囲は、雇用された授業に直接関わるものだけでしょう。教員の私的な手伝いに学生を使うのは、今は厳に禁じられているはずですね。どういうことなのか、説明していただけませんか」

 柳井は丁寧な口調を崩していないが、言葉は尋問めいて、こちらを威圧する意図が感じられる。私は言った。

「如月くん自身から、手伝いたいと申し出があったんだよ。ぼくに断る理由はなかった」

 柳井の目が細くなる。

「朝永先生ご自身の意志ではなかったと」

「彼のせいにするつもりはない。ただ、率直に説明すれば、それだけのことだ」

「なるほど。……あのね、朝永先生。一つ、お耳に入れておきたいことがあるんですよ」

 彼の目に、私は狡猾な光を見てとった。

「――ぼくが聞きたいこととは、限らないね」

「いや、そう言わずに、ぜひ聞いてください。如月くんは、朝永先生を面倒なことに巻き込みかねないところに来ていると思うんですよ。具体的に言えば、誘惑しようとしている」

「くだらない」

 私は断じた。

「出まかせを言うためにぼくの昼休みを消費するなら、帰ってくれませんか」

 そこでやめれば良かったのに、私の余計な一言が、柳井に付け入る隙を与えた。

「如月くんは、そんなことをする人間じゃない」

 と言ってしまった。

「はっきりおっしゃいますね、朝永先生」

 柳井は尻尾をつかまえたと言わんばかりの顔をした。

「どんな学生だと理解してらっしゃいますか」

 まずいと思いながら、私は義憤に駆られて答えた。

「彼はとても純粋な若者だ。君の言うような、汚れたことを考えるわけがない」

「へえ……。如月くんはすっかり、朝永先生を籠絡ろうらく済みなんですね。朝永先生こそ、純粋というか、世間せけんれしてない方ですね。ぼくは感動してますよ」

「何の根拠があって、如月くんを侮辱する」

「そんなににらみつけないでください。先に念を押しておきますが、ぼくの言うことは出まかせでも、嘘でもありません」

 彼はちらりと戸口を見て、ドアが閉まっていることを確認した。それから声を低め、

「如月くんはね、ぼくと寝たことがあるんですよ」

 と言った。



 真っ白な空間に、ぴいんという幻聴が鳴っていた。時間の流れが止まって、私は柳井の、瞳と白目の境界の甘い、茶色い目を見返していた。蛇が鎌首をもたげるように、柳井は私の反応を待ち構えている。

 私はゆっくりと、首を振った。いつか、経験したことのある感覚だった。――嘘だ。嘘と思いたいが、どこかで、それが真実だと知っている感覚。あれは……。

「もちろん、最近の話じゃありません」

 柳井が話を続けた。

「八年近く前になります。彼は当時、としを実際より上に偽って、売春まがいのことをしてたんです。都内の、決まった界隈を徘徊して、拾ってくれる男を探してね。あまり相手を選ばないし、自分から金の請求もしないというので、仲間内では大変な評判でしたよ。何より、きれいでね……。十六か、七だったでしょうが、そんなことをやってても崩れた雰囲気がなかったですしね。偶然、出会えた時は、自分は幸運だと舞い上がったもんですよ。先学期のTAに彼が来て、初めて年をごまかしていたとわかったんです。あの当時に知っていたら、相手にしませんでした」

「――人違いじゃないのか」

 私はやっと言った。

「確かめたわけじゃ、ないんだろう」

「一夜の関係でしたから、彼は大学でぼくを見ても、憶えてないようでした。八年前は、ぼくは髪を染めてませんでしたし、地味な色の服ばかり着てたんで、そのせいもあるでしょうね。でも、ぼくの方ではすぐに彼だとわかりましたよ。当時より背が伸びて、男らしくもなってますが、あの目と髪の色ですからね」

「それが本当だとして、如月くんのためを思うなら、心の内にしまっておくべきことじゃないのか。無関係の人間に明かすのは、プライバシーの侵害だ」

「根拠を教えろと言ったじゃないですか。朝永先生のようなきちんとした方に、如月くんは似合いませんし、手に負えませんよ。あれは悪魔同然です」

「――――」

「彼は、金のために男と寝てたわけじゃない。他人の肌がないと、生きていけない性質たちなんですよ。あの時の彼を観察して、ぼくはそれがよくわかったんです。彼は数か月で、ふっつり路上に現れなくなりましたが、別のところで欲求を満たしてるんでしょうね。同類の集まるバーに、男連れで来てたって耳にしたこともありますから。……先生が如月くんの接近を許すのは、危険ですよ。適当に、線引きをすべきだと思いますね」

「――もう昼休みが終わる」

 棒のような声で、私は言った。

「君の言いたいことはわかった。だが、ぼくは自分が正しいと思うことをするまでだ」

 柳井は背を伸ばし、私を見下げるような目つきをしてから立ち上がった。

「こちらも同じです。……朝永先生」

 戸口へ向かいながら彼は言った。

「学部長は昔、朝永先生のお父上に指導を受けたそうですね。忘年会で同席した時、懐かしがっておられましたよ。それに、C大の朝永肇教授。今年のイギリス総選挙の解説を書いてらしたのを見かけましたが、お兄様だそうで。錚々そうそうたるご家族ですね。ぼくみたいな庶民の出には、想像もつきません。そういうお育ちの方には、理解しがたい人間というのが、いるんですよ」

 柳井が出ていって、れた茶を忘れていたことに気づいた。冷めきった濃い緑の液体を湯呑みに注ぎ、口に含んだ。どろりとした苦みが喉を落ちていった。

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