九 (4)


 金曜日の昼休み、昼食を終え、手洗いに行くために研究室を出た。一月最初のホーソーンを読む授業の日だった。開始時間までは、まだ二十分ほどある。

 手洗いを出てきたところで危うく、横から来た誰かと衝突しそうになった。

「失礼、――」

 言いかけて、言葉が止まる。目を見開いて、そこに如月が立っていた。

「ああ、如月くんか。あけましておめでとう。どうしたの、ぼくに用があって来た?」

 如月は棒立ちになっている。驚いたせいだと思った彼の表情が、そうではなく、何かに対する怯えだと気づいた時、彼の肩越しに、廊下に並ぶドアの一枚が閉じるのが見えた。

 ――柳井の研究室。――

 まさかと思いながら如月に視線を戻すと、彼は頭を下げた。

「何でもないです、すみません。教室に行ってます」

 彼は背を向け、逃げるように廊下を去っていった。

 私はもう一度、閉じたドアを見やった。胸騒ぎがした。如月はここから出てきたのだ。おそらく、彼にとっては不本意な、もしかすると耐えられないようなことがあったあとで。

 柳井をつかまえて問いただすには時間がない。すべては授業が終わってからだ。研究室に戻り、時間を見計らって教室へ向かった。

「ラパチーニの娘」を読み終わり、次回が期末試験である由の念押しをして授業を解散すると、質問のある学生の列ができた。後片づけをする如月に、教卓の鍵を教務課に返したらここに戻るようにと言った。

 最後の学生の質問に答え始めたところで、如月は戻ってきた。頼りなげに教室の隅に座り、私の身体が空くのを待っている。学生が全員出て行き、気配も遠ざかったところで、如月を促して教室を出た。柳井の研究室の前を通るのを避け、遠回りして反対側の階段から廊下に入り、自分の研究室へ行く。

 如月を中に入れ、音を立てないようにドアを閉めた。彼は心ここにあらずといったていでソファに腰を沈めた。私は黙って煎茶を淹れ、如月が何か言ってくれるのを待った。

「すみません、ご心配かけたみたいで」

 湯呑みを前に置くと、彼はようやく顔を上げて弱々しい微笑を浮かべた。

「来週も、先に教室へ行ってればいいですか」

「いや、試験では機材は使わないから、授業の十分くらい前に研究室に来てください。一緒に教室へ行って、用紙の配布と試験監督を手伝ってもらいます」

「わかりました。……お茶、いただきます」

 緑茶の、人の感覚を鋭くする青い匂いが、薄く立ち上っている。彼は再び、長い睫毛を伏せて沈黙している。午後のこの時間には異例なほど私の注意力は研ぎ澄まされ、静けさは耐えがたいほどに耳を圧してきた。

 今、学生相談員として彼に接しているならば――と私は考えた。あくまでも、彼が話し始めるのを待つべきだ。

 しかし、これまで彼は私との間の距離を、みずから縮めてきたのではなかったか。

 こちらから一歩踏み込むのを、私は自分に許してもいいのではないか。

「――如月くん」

 私は切り出した。

「君の所属研究室で、学内競争資金を使ったプロジェクトをやるということだけど、君も関わるの?」

 如月が湯呑みから唇を離し、視線を上げた。その目から、答えがイエスだとわかった。

「朝永先生、なぜ知ってるんですか」

「柳井先生から聞いたんだよ。新年度からの協働企画だと言っていたけど、そうなの」

「うちの研究室では、もっと前からやってる企画です。俺が四年生の時に、指導教員の宮園みやぞの先生が、外部資金で始めました」

 如月の説明によれば、それはある種のソフトウェアの開発企画だという。

「環境モニタリングを行うソフトウェア群で、携帯電話とかの個人端末に組み込んで使えるものです。柳井先生から、このソフトの可能性を広げるために、ヨーロッパの観光業界の人たちとコラボしたいと打診があったそうです。宮園先生は新しいアイディアが大好きだから、乗り気になったみたいで」

「それで、学内競争資金に応募したんだね。確か、去年の十月に募集が出ていた」

 如月はうなずいた。

「はい。数種類のソフトウェアを同時開発してて、学部生も院生も関わってます。柳井先生は海外の研究者を複数、協力者として確保しているそうなんで、これで国際的な共同研究になるって宮園先生は喜んでるんです」

「なるほどね。新年度から、柳井先生はある意味、合法的に宮園研究室に出入りできるようになるわけか」

 言葉を切り、如月が何か言うことがあるのではないかと、間を置いた。彼は湯呑みに両手を添え、視線をそこに落としたままじっとしている。

 私は尋ねた。

「さっき、如月くんは柳井先生の部屋にいただろう」

 如月が身を固くした。

「何か、嫌なことを言われたんじゃないの。君を困った立場に追い込むようなこととか。どうですか」

 彼は答えず、代わって質問してきた。

「朝永先生。仮に、仮にですよ。俺が、学内の誰かからハラスメントを受けたと正式に相談して、助けてほしいと頼んだら、どんなことが起こるんですか」

 彼が膝に置いた手が震えてズボンの生地を握るのを、視野の端が捉えた。

「一般的な手順を説明しよう」

 私は余計な感情を交えずに話し始めた。

「二人の相談員が、詳しく事情を聞くことになる。君の場合なら、ぼくともう一人でもいいし、希望に応じて、二人とも別の教員にしてもいい。その相談員が、相手方、つまりハラスメントをしたとされる人からも事情聴取をする。結果を相談員の委員会で検討して、対処を決める。誤解や行き違いから生じた問題なら、もつれた糸をほぐす手助けをするし、実際に不当な行為があったと確認できれば、両者を物理的に引き離すなりの対策を講じる。やった側の懲戒につながるような深刻な事例も、これまでなかったわけじゃないが、大抵は学科主任や学部長に動いてもらえば解決するよ。……まあ、あくまで、相談に上ってきたケースではの話だけどね」

「つまり、朝永先生も含めて、数人以上の人が事情を知ることになるんですね」

「それは、心配しなくていい。会議の場では匿名で扱われるし、われわれ委員は守秘義務に縛られているから、何を知っても一切、口外はしない」

 如月は押し黙った。彼の湯呑みがほぼ空になっているのを見て、私は訊いた。

「お代わりを淹れようか」

「――いえ、結構です。ごちそうさまでした」

 彼は立ち上がった。

「お時間を取って、すみませんでした。もう行きます」

「如月くん」

 慌てて、戸口へ向かう彼の前に立ちはだかった。

「相談したいことが、あるんじゃないのか」

 琥珀色の瞳が揺れた。唇が開く。

「先生。俺――」

 強く私の目を見てから、顔を逸らした。

 彼は私の横をすり抜けて、ドアを開けた。

 如月くん、と呼ぼうとした声を呑み込んだ。研究室にいるかもしれない柳井に、聞きつけられたくない。

 如月はコートと荷物を抱え込み、足早に廊下を遠ざかっていった。 

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