八 (1)


 ……日の光の届かない深い淵の底から、小さな泡がひとつ、ふたつと上ってくる。泡は次第に増え、水面に近づくにつれてちらちらと微光を発し、集まってさざなみを成す。静かに、とても静かに――波は心の岸辺にひたひたと寄せ、乾いた砂を潤してゆく……



 暗い寝室で目が開いた。院生たちと如月燎が家に来て、帰っていった後だった。ベッドサイドテーブルから時計を手に取って見ると、真夜中を回っている。

 胸の内に、覚えのある、しかしにわかには何とも識別しがたい感覚が生まれていた。

 じっと身を横たえていて初めて感じ取れる、はるかに遠い場所からの海鳴りか潮騒のようなもの。ふつふつとつぶやきながら湧き立つ、小さな、小さな波の熱。息詰まるようでありながら、目覚めを促し、頭を冴えざえとさせる、この感覚――

 ベッドの上に飛び起きた。

(これは――)

 右手が思わず心臓のあたりをかき抱く。その手が震えた。

 しばらく拍動を数えてから、ベッドを降りた。窓際に寄ってカーテンを開ける。深夜の外気が窓ガラスを通じて伝わり、顔を冷やした。

 身体の内に、あのさざなみ――今にも荒れ狂う大波へ姿を変えようとする熱い流れが、よみがえっていた。

 若い頃に長く私を悩ませ、アーネストという行き場を得て、彼を失った後はもう二度と戻ってくることはないと思っていたあの感情。長く忘れていた、身体を芯から揺るがす波。

 窓ガラスに、如月燎の幻影が灯って消えた。

 これまでの学生相手には想像すらしなかった感情が、彼に対して湧き出している。

 ――この人を、抱きたいと思ったんですよ。――

 若い私の写真を見た彼が、いたずらっぽい目で口にしたその言葉が、私も気づかぬほどに小さかったさざなみに、急な推進力を与えたのに違いない。

 落ち着け、と目を閉じ、冷たい窓ガラスに額をもたせかけた。本気で相手をものにする気などなく、ただ日々に精彩を加えるために誰かに心を寄せるというのは、洋の東西、時代も世代も問わず、いつでもあることだ。如月には、別離を控えているとはいえ岬裕真という恋人がいるし、私のTAとしても、十二月の後半と一月の前半、あと四回の授業が終われば業務終了となる。それまでの間、父親のような気持ちで彼を支えてやって、この不穏な感情は秘密にしておけばいい。

 彼が教養部の教室にも私の研究室にも来なくなったら、人生の季節外れに狂い咲いた感情も、跡形なく散り去っていくだろう。

 そうでなくてはならない。



 如月が家に来た後の週明け、文学部内の個人ポストから郵便物を取り出していると、樋口眞佐美教授が来た。挨拶した時、彼女が胸元につけたブローチに目を引かれた。ゴールドの枠に入れたシェルカメオだ。女性の横顔が彫られているのは定番だが、大きくデフォルメされた目と力強い眉の表現、微笑する厚い唇に、中性的な凛々しさがあった。

「そのカメオ、いいね。現代的だし、あなたに似合っている」

「そう? ありがとう」

 樋口さんはポストの扉を開けながら、嬉し気に言った。

「これね、パトリシア・パルラーティの作品。イタリアのカメオ作家なの。朝永さん、こういうの好きそうよね。でも、これ、去年の冬も着けていたのよ」

「……そうだった?」

 今日まで気がつかなかった。郵便物を抱いて、彼女は私を観察した。

「もしわたしの見当違いなら、申し訳ないんだけど……。最近の朝永さん、ここ数年でいちばんいい顔してるわ。自覚、ある?」

 私は赤面した。答えない私を見て、樋口さんは微笑んだ。

「ちょっと安心したわ」

 彼女は女子学生がやるように、素早く手を振って立ち去った。

 妻が亡くなったことは職場に知らせたが、その前から別居していたのは、個人的に親しい教員にしか話していない。樋口さんはその数少ない一人だった。気にかけていてくれたことに感謝の念を持った。時間を飛び越えて、二十代で知り合った頃の彼女の人格が語りかけてきたようだった。



 金曜日、ホーソーンを読む授業のため、私は緊張気味に教室へ歩いていった。

 先に来ているはずの如月に対し、これまでと同じように接するべきだと、自分に言い聞かせた。若い頃の私の写真を見て如月が口にした言葉も、それをささやく間際、彼の瞳が妖しく光ったことも、息の温かみを感じるほど近くに彼の顔があったことも、みな忘れるべきなのだ。いつも顔を合わせる大学とは違う場所で二人きりになり、つい、それぞれの役割を踏み外してしまっただけのことだ。

 今頃、如月は、つまらないことを言ったと悔やんでいるか、あるいはもう忘れてしまったかもしれない。けれども、自宅の居間でのあの一時を、意識に上らせまいとすればするほど、不安が募った。彼を見た時の、自分の反応が予測できない。

 こちらの思いを、見破られてしまわないだろうか。

 教室の前で足を止めて息を整え、気持ちを落ち着ける。と、男子学生が一人、脇をすり抜けて教室へ入っていった。思い切って後に続く。

 教卓の後ろに如月がいた。私を見て、こんにちはと明るく言う。先週は作業前に縛るほど長かった髪が、今日は耳の下までの長さに切ってあった。学生たちがおしゃべりをやめ、席に戻って授業を聞く体勢になると、私の精神もすぐに講義を行う構えに切り換わった。

 心配していたことは起こらず、内心、胸を撫で下ろした。長年教壇で培った習慣が、功を奏したのだ。如月と手分けして、小テストのプリントを配り始めた。

 授業は予定していた最後の小説、「ラパチーニの娘」に進んでいる。架空の小説家の作品という体裁を取る物語で、昔のイタリアを舞台とするが、時代は明記されていない。今学期に読むものでは最も長く、また官能に訴える表現の多い作品だ。豊かな色彩と芳香のイメージは、魔術と科学の境界が溶け合うホーソーンの世界へと、読む者を連れていく。

 ジョヴァンニは大学で医学を学ぶため、南イタリアのナポリから北イタリアの歴史ある町、パドヴァにやって来た青年である。彼は下宿の窓から見下ろした庭園に、名高い老医師ラパチーニとその美しい娘、ベアトリーチェがいるのを見る。青年は彼女と恋に落ちるが、彼女はラパチーニにより、庭園の猛毒植物とともに育てられ、彼女自身が毒を持つ存在となっていた。そうすることで、父親は娘が何ものにも勝る強い存在になると考えたのだ。

「痣」では夫が妻の痣を消すことで、彼女の死すべき運命を回避しようとする。憑かれたように奇矯ききょうな実験にふける男と、その対象となる愛する女という組み合わせは、「ラパチーニの娘」と共通している。どちらの物語でも、男の目的は女を至高の存在に変えることだが、ラパチーニの目論見も「痣」の夫の場合と同じく、悲劇に終わる。

「痣」を読んだ如月の、この夫は妻を愛していたのかという問いを「ラパチーニの娘」にも投げかけるなら、ラパチーニが娘に行ったこと――吐息さえも猛毒を含み、普通の人間とは結ばれ得ない運命を強いたのは、果たして愛の成せるわざと言えるのか。それは愛という建前の、自己満足にすぎないとも解釈できるのだった。

 授業後に女子学生が二人、質問があると言って教卓に来た。対応する間に如月が後片づけをして、先に教室を出ていった。質問に答えるのに休み時間の大半を費やし、彼が待っているだろうと急ぎ足で研究室の方へ戻ってくると、高い笑い声が聞こえる。樋口さんだ。廊下で彼女と如月が、いかにも楽しそうに立ち話をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る