八 (2)
樋口さんは私を見て言った。
「ほら、話題の主役が来たわよ……」
「何だい、噂の種にされていたのか」
私は二人のそばに立ち止まった。
「如月くんは、樋口先生も知ってた?」
「ええ。一年生の二学期に、授業を取ってたんですよ」
彼は答えた。瞳に笑いが輝いている。
「今、朝永先生が、アイリッシュパブで一人芝居をやった話を聞いてたんです」
「それはまた、古い話を持ち出して……。何でそんな話題になったの」
樋口さんがくすくす笑う。
「朝永先生は、本当は面白いのよって話してたの。ガードが固いから、なかなかそういうところ、見られないけどねって」
「あの時は飲みすぎた。それに、樋口さんに乗せられたね」
「アイリッシュパブって、入ったことないんですよ。その店、今もあるんですか」
如月が訊いた。
「こないだ、外国人の先生方が行ったって話してたから、まだあるみたいよ。東京のアイリッシュパブでは、老舗の方じゃないかしら。興味があるなら、名前を教えましょうか」
「お願いします」
如月はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。樋口さんの伝えた店名で検索し、店のホームページをブックマークする。携帯をしまって、彼は言った。
「友達がもうすぐ東京から地元に戻るんで、まだ行ったことのないところを見せてやりたいんです。候補にしようかなと思って」
岬裕真のことを言っているのだ。
「それはいいわね」
樋口さんは彼に微笑んでから、私を見た。
「私たちも、何年も行ってないわね。次の英語の宴会、あそこで企画したらどうかしら」
「それは難しいんじゃないかな。昔のままだったら、煙草の煙があるだろう。禁煙じゃないと嫌だという人が多いからね」
「忘れてた。その通りね」
彼女は舌打ちしそうに顔をしかめた。
「今はそれがあるものね。煙草の問題さえなければ、また行きたい店、ほかにもあるんだけど……」
「樋口先生」
聞いていた如月が口を挟んだ。例の、「いいことを思いついた」時の声だ。
「良かったら、一緒に行きませんか。樋口先生と朝永先生と、友達とぼくの四人で。そしたら、先生も行けるし、友達も喜ぶから、一石二鳥でしょう。教養部の先生と話す機会って、ぼくら、全然なかったんですよ。もし明日の夜とか空いてたら、どうですか」
「あら、嬉しいお誘いね。どう、朝永さん。たまには、文学部以外の学生としゃべるのも、いいんじゃない?」
「しかし、……」
すぐには賛成できなかった。一般教養の授業でしか接点のなかった学生と飲みに行くというのは異例だし、どうせ教員がおごることになるのだから、ほかの学生に不公平ではないかという反論が喉元まで出かかった。
だが、如月はもう期待でいっぱいの表情だ。樋口さんも、有無を言わせまいとする視線をこちらに向けている。圧力に負けて、
「……まあ、樋口さんがそう言うなら」
と答えてしまった。
如月が「友達」に都合を確認すると言って、機嫌良く立ち去った後、樋口さんに訊いた。
「あんな提案にオーケーするなんて、少し驚いたよ。何か、思うところがあったの?」
「ええ。朝永さんと飲みに行く、いい機会だと思って」
私が面食らったのを見て、樋口さんは付け加えた。
「変な意味じゃないわよ、誤解しないでね。……ただ、もう長いこと、友人として飲みに行ってなかったわねって。それだけ」
彼女は、あとの相談はメールで、と言って離れていった。
翌土曜日、初めて着るセーターに袖を通した。黒い無地のタートルネックで、編み目がごく細かく、織物のようにも見える。上にヘリンボーンツイードのコートを羽織って日暮れ頃、家を出た。
新宿駅で電車を降り、アイリッシュパブのある一角を目指して歩く。冬至が近づき、季節感の薄い繁華街にも、底の方に冷えびえとした大気が滞っている。待ち合わせ時刻より五分ほど早くパブの前に着くと、店の窓から洩れる明かりの中に樋口さんの姿が見えた。エレガントな紺青のラップコートを着て、襟元にストールを巻きつけている。足を速めてそばへ行き、声をかけた。
「中で待っていればいいのに」
「女ひとりでなんて入れないわよ」
彼女は私の身なりを点検した。
「いいセーターね。スメドレー?」
「あなたは恐ろしいね。なぜわかった?」
「光沢が特徴的だもの。そんなの買う趣味があったのね」
「娘だよ。五十歳の誕生日プレゼントにもらった。着る機会がなくて、今日まで放ってあったんだ」
「いくら高級だって、しょせんセーターなんだから、普段に着たらいいじゃない。着る機会というより、着る気がなかったんでしょう」
「……高級なのか」
「いやあねえ。お値段を調べて、お嬢さんにはちゃんとお礼をしなさいよ」
そんなやり取りの間に、如月燎と岬裕真が連れ立って到着した。如月はキャメルのダッフルコート姿で、樋口さんと私を見ると、お待たせしましたと快活に言った。背の高い彼の後ろに、紺のピーコートを着た岬が半分身を隠すようにしている。樋口さんの目に、知った顔を認めた色が浮かんだ。
「あら、……友達って、あなただったのね。岬さん、でしょう?」
「あ、はい。こんばんは」
「何だよ、ちっさい声で。しゃんとしろよ」
如月が岬の背に手を添えて前に押し出す。岬が目をしばたたかせ、首をすくめるのに笑って、如月は言った。
「樋口先生、
「でも単位、あげたじゃない。わたしは成績は
樋口さんは学生二人のやり取りを面白がっているようだった。私に向いて、言った。
「期末試験の時、岬さんは最後まで残って問題を解いてたのよ。如月さんはとっくに答案を出したのに、教室の隅で彼を待ってたの。それが印象的だったから、よく憶えてる」
「あの頃、如月くんに英語、教えてもらってたんで」
岬の言葉が言い訳めいて聞こえたのは、私が彼らの関係を知っているからだろうか。
「仲いいのね。親友?」
「ええ」
如月は薄く笑みを浮かべてうなずいた。
「そうです。一年生の時から、ずっと」
私の反応を見るように、流し目をくれる。店の灯を映して彼の瞳が光る。胸の内にふわりと湧き上がる波の気配を抑え込んで、私は、店に入ろうと皆を促した。
パブの外壁はアイルランドを象徴する深い緑色に塗られ、金文字で店名が掲げられている。重く厚い木の扉を開き、中に足を踏み入れる。店内の空気が温かく私たちを迎え、ビールの香りと揚げ物の匂いを運んでくるとたちまち、樋口さんとよく来ていた頃の感覚がよみがえった。当時の私たちが好んで座ったバーカウンターのスツールには、もう男女の一団が陣取って会話に没頭している。二、三人の指先には煙草が見えた。
時代に合わせて方針を変えたらしく、今はカウンターとそこに近い数席だけが喫煙可能で、あとは禁煙席になっている。まだ宵のうちで、店内のテーブルは三分の一ほどしか埋まっていない。私たちはカウンターから離れた、壁際の禁煙席に場所を取った。壁は額縁に入れたアイルランドの地図と、ヴィンテージ風ポスターで飾られている。一本脚のテーブルとベントウッドのチェアは、どちらも控えめな光沢の、濃い色の木製で、これは記憶のままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます