七 (4)


 娘は、お母さんは勝手だと言って泣いた。息子は、引き留められない私が無能だと言って怒った。納得してもらうのは不可能なことを承知で、できる範囲の説明はしたが、夫婦の会話のすべてを伝えるわけにはいかなかった。血を分けた子どもにも――あるいは子どもだからこそ――話せないことだった。

 ましてや問題の根底に、私の奥深くに秘された〈女〉の存在があるのを、明かすことなどできなかった。

 アーネストと別れて以来、恋慕や憧憬、情欲といった感情を、私は水底に両手で沈めるようにして窒息させてきた。その一方、家庭と職場で、自分のなすべきことを真摯にひとつひとつこなしていくことが、絶望せずに生きていく方法となっていたのだ。けれども、私の中の〈女〉が暗い淵の底に追いやられていくのと同時に、妻と夫婦の営みを持つ欲求も失われていった。その私の変化を映すように、妻も私を求めなくなっていった。

 年齢のせいだと一蹴するには、二人とも若すぎた。そもそも瑶子が私に惹かれたのは、アーネストが私の隠れた資質を見出し、育んだためだった。彼を失い、私は瑶子の言う「デクノボー」に戻ってしまったのだ。

 瑶子と私はそれぞれ、子どもたちからの非難や親きょうだい、近い友人たちから投げかけられる疑問のつぶてに耐え、かわしながら粛々と物事を進めた。瑶子は私が協力的だと皮肉を込めて褒めたが、それは彼女がこうと決めたら何をしても翻意させられないことを、私が知っていたからだった。瑶子は榎本と暮らし始め、私は彼女が数年前に友人宅からもらってきた猫と、子どもたちとの生活を続けた。

 瑶子のいない日常にも慣れた頃、かつて夫婦で取材を受けた新聞のローカル面に、彼女と榎本の写真を載せた記事が出た。劇団の新作が大きな賞を受け、地元の公演会場から都心の有名ホールに場所を移しての再演が決まったという記事だった。

 一緒に記事を見ながら、娘は複雑な表情で言った。

「お母さん、幸せな顔で写ってるね」

 それを聞いた息子は、私が新聞を置くと記事のページを破り取り、黙ってシュレッダーにかけた。



 しかし、運命の手が子どもたちから母親を、そして私から妻を本当に奪い去ったのは、瑶子が家を出て三年ののちのことだった。年度の初めに私は准教授から教授に昇任し、息子は京都の大学へ進学するために家を離れた。娘は都内の大学の四年生となり、親しく交際しているという同期の男性を家に連れてきた。彼との結婚を意識しているとも言った。それなら一度、お母さんも交えて集まらなければ、という話をしていた矢先だった。

 梅雨ただ中のその日、瑶子は榎本と、初めて使う公演会場を下見に出かけた。昼間はぱらつく程度だった雨は、夕刻には激しくなった。榎本の運転する車の、助手席に瑶子は乗っていた。後で劇団員たちから聞いたところによれば、その郊外の新築ホールを初めて使う演劇団体になるというので、瑶子はずいぶん張り切っていたという。

 いくらワイパーを動かしても前方が見にくいほどに雨が叩きつけ、車が水しぶきを蹴立てて走るような状況で、スピードが出すぎていたのか、榎本がハンドル操作を誤ったのか、詳しいことはわからない。二人の車はガードレールに激突し、宙を舞ってその外の斜面に転落した。

 娘と私が病院に駆けつけた時、瑶子の意識はもう途切れがちになっていた。ベッド脇にひざまづき、包帯から出た指先を握ると、彼女は薄く瞼を開いた。

「……惇也」

 瑶子の唇が動いた。

「あなた、長いこと、見なかったわね。いったい、どこに行ってたの」

 横で、娘が泣き声を呑み込む気配があった。私は彼女の手を握り直してささやいた。

「それはぼくの台詞だ。瑶子」

「……ねえ」

「何だい」

「キス、してよ」

 娘に病室から出てもらった。腫れて色の変わった彼女の唇に、自分の唇を重ねた。

 それが妻から聞いた、意味のある最後の言葉だった。京都から夜遅くに到着した息子と娘、私に見守られて、翌朝、彼女は息を引き取った。



 四か月が経った頃、榎本が長い入院生活から解放され、焼香をさせてほしいと言ってきた。彼が来る日、娘は自室に閉じこもり、私が一人で応対した。

 榎本を待つ間、私の頭は彼に問いただしたいことでいっぱいだった。なぜあの雨の日に無茶な運転をしたのか、他の日や交通手段を選ぶ余地はなかったのか、瑶子は当日、何を語り、どう行動していたのか――など。呼び鈴の音を聞いた時には、榎本が焼香を済ませたら、ただちに尋問を始める気持ちでいた。鬱屈した憤りを腹に秘め、ドアを開けに出た。

 目が合うなり、榎本は深々と頭を下げ、そのまま動かなかった。どうぞ顔を上げてください、と伝えて、ようやく姿勢を戻した彼の顔には、劇団のチラシや新聞記事の写真で見た、人好きのする闊達かったつそうな笑顔の代わりに、悲痛さのあまり滑稽味が加わったような表情があった。痩せ顔の、右目の上から頬にかけて長く痛々しい傷が入っている。以前は茶に染めていた髪は本来の黒色に白髪が混じり、形も整っていなかった。

「訪問をお許しいただき、ありがとうございます」

 その声は芝居がかって震え、今にも泣き出しそうだった。黙ってうなずくうち、怒りの感情が支柱を失い、彼を詰問する気も萎えていくのを感じた。 

 仏壇に線香をあげて手を合わせ、榎本は臆面もなくしゃくり上げた。作法に従い、今日は黒いスーツに身を包んではいるが、家庭に落ち着いたことのない男に特有の、やんちゃ坊主のままの雰囲気は隠しようもなかった。それを男の色香などと評する人も多い。瑶子もそこに惹かれたのだろうか。

 互いに型通りの言葉のみで用事を済ませた後、榎本は携帯電話で迎えを呼んだ。彼が少しバランスを欠いた歩き方で玄関を出た先に、車が来た。運転席に、榎本の新しい相手か、見知らぬ女の影が見えた。

 去る車の音に背を向けて扉を閉めると、娘が部屋から出てきていた。目元が赤かった。

「お父さん。なぜ榎本さんに何も言わなかったの。あの人のせいで、お母さんはあんなことになったのに」

 娘を居間のソファへいざなって、一緒に座った。

「あの人は、子どもだ。ぼくらが何を言っても、上っ面の意味しかわからない人だ。理解する力のない人に、理解を強いても仕方がない。それに、短い間でも、お母さんは彼といて幸せだったんだろう」

「だからって、許せるわけない。お父さんは許せるの」

「悧奈。……悧奈とそうから、お母さんを奪ったのは、お父さんだ」

 娘の大きな瞳が、私を凝視した。

「お父さんがもっと違った生き方をしていれば、お母さんは出て行かなかったんだ。悧奈と創には、本当に、申し訳ないと思っている……」

 娘は泣きながら私に両腕を回し、頬と頬を擦りつけた。娘の涙が私の顎を伝い、私の首と襟、胸を濡らした。



 アーネストに別れを告げられて以来、私は徐々に、世間の流れについていく意欲を低下させていったのだが、瑶子をうしなったことでそれは決定的になった。私の中で、時間は完全に止まってしまった。周囲の世界と肉体の上には確実に時間が過ぎていくのに、学界の流行や、大学を取り巻く環境の変化、技術革新にも関心を持てなくなり、ただ慣れ親しんだ文学と授業方法にのみ閉じこもって、それを正当化するようになった。

 そのまま行けば、時代遅れの頑迷な老教員となる道筋に、私は自分を置いていた。



 色彩のない淀みの中に深く沈み、朽ちゆこうとした私の感情――そこに、ひとすじの光が差し込んできた。

 研究室の扉を開け、彼を迎えた、あの瞬間からのことだった。 

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