二 (3)


 私が授業のやり方を変えたのを真っ先に発見したのは、樋口さんだった。

「朝永さん、授業でパワーポイントを使っているのが廊下から見えたわよ。どういう心境の変化なの」

 教授会前に顔を合わせるなり、彼女は言った。

「思わず二度見しちゃった。朝永さんがやり出したんなら、もう大学のデジタル化も最終段階ね」

「ぼくは何も変わってないさ。学生が、変えろとうるさいもんでね」

 私は要望の出どころをぼかして答えた。

「でも、文学のテーマでやるのは譲らないよ」

「わかってるわよ……。授業評価アンケートの結果が良ければ、教養部長もお目こぼししてくれるでしょうよ。何にせよ、アップデートする気になったのは良かったわ」

 樋口さんは上機嫌だった。如月の強引な提案の、思いがけない効果だった。

 この授業は文学専攻の学生に向けたものではなく、一般教養の英語として開講しているため、さして多くの作品を読むことはできない。それでも、大学教育業界では恵まれた場にいることを、私は自覚していた。本学の学生たちは、課された英文を完全には理解できなくても、とりあえず頑張って読んでみようとする学力を持っている。他大学の同業者には、英米文学専攻の学生であっても、原書を読めるほどの英語力がないため、日本語訳に頼って学生と議論せざるを得ない教員たちもいるのだった。

 初回と期末試験を除いた十三回の授業のため、四編の短編小説を選び出した。最初の「ウェイクフィールド」は、二十年もの間自宅の隣に身を隠していた男の奇譚。数々のオマージュ作品があるほど人気が高く、ペーパーバックで十ページの短さなので、ホーソーンの文体に馴染むための導入に適している。続く三編、「あざ」、「美の芸術家」、「ラパチーニの娘」は、どれも美を物語の柱とする作品だ。『緋文字』があまりに名高いため、ホーソーンといえば一般的に、宗教的信念と個人の自由との緊張関係を、倫理や正義の面から探求した作家として理解されている。ホーソーン作品のそうした側面しか知らない人には、美というテーマは意外に見えるかもしれない。しかし、初めて彼の作品を読む学生たちに、彼の燦然たる文学表現や、読む者の心を奪うイメージ喚起力を体験してもらうのには最適と思われた。授業は、小テスト、朗読、訳読、講義を組み合わせ、時折スライド資料を見せながら進めていく。

 如月は仕事が早く、有能なTAだった。毎度、機材のセッティングと操作を手伝った後は、教室の隅の席で小テストを採点している。それも授業の半ばで終えてしまって、自分のノートパソコンで点数の記録をつけている。さらに時間が余ると、渡しておいたホーソーンの短編集を開く。授業受講者と同じものを読むよう義務づけてはいないのだが、テストを採点するのに、自分も教材の中身を理解しておいた方が良いから、と言うのだった。これまでのTAの中には、必要最小限の仕事しかしたくないという態度があらわな者もいたが、如月は違った。これほどの仕事ぶりなら、柳井が一度彼を雇った後、再度仕事を頼みたがったのも不思議ではなかった。しかし、そこに不純な動機も絡んでいるのであれば、見過ごすわけにはいかない。

 四週目の授業後、教卓の鍵を教務課に返却するのを如月に任せ、いつものように教室を出た。文学部に戻って廊下を歩いていくと、柳井が自分の研究室の戸口で腕組みしているのが目に入った。私を見ると腕を解き、軽い挨拶めいた口調で話しかけてきた。

「朝永先生。如月くんとの授業はどうですか」

「おかげ様で順調だよ。ありがとう」

 足を止めずに通り過ぎようとしたが、柳井は斜め前からぐいと身体を寄せ、私の進路を塞いだ。

「まあ、ちょっと話しませんか。次のコマは空きですよね」

 彼は長い顎に愛想笑いを貼りつけて言った。その時やっと、彼は私か、私と一緒に通りかかるかもしれない如月を待っていたのだと気がついた。

「授業はないが、委員会があるのでね。今、必要な話ですか」

「なに、二、三分で終わることですよ。入ってください」

 柳井は私をドアの内側に招き入れたが、奥には進まず、私たちは閉めたドアのすぐ隣で向かい合った。今日の柳井は、芥子からし色のスエード革のテーラードジャケットに黒のニットとジーンズで、妙に先の尖った靴を除けば、彼にしては落ち着いた格好だった。

「如月くんは、どういった理由で朝永先生のTAになったんですか」

 柳井は訊いた。

「TA希望の申請をぼくが出していて、彼が割り当てられた。一般的な流れだよ。何か気になることでも?」

「通常の手順だと、どんな学生が割り当てられるかわからないでしょう。語学のろくにできない学生も応募してくるし。だから、ぼくは八月のうちに如月くんにメールで依頼したんですよ。でも、その時点でもう、別の先生の依頼を受けたからできないって返信が来たんです。そんなに早く、朝永先生と約束してたってことなんですか」

「それは――」

 私は素早く辻褄つじつまを合わせる説明を探した。

「たまたま、彼と顔を合わせる機会があってね。TAに応募すると言ったから、なら、ぼくの授業に来てもらえたら助かるという話はした。TA割り当て係の先生には、もしかすると口頭で伝えたかもしれないが、記憶が曖昧なものでね。申し訳ないが、言えるのはそんなところだ」

「はっきりした約束はしてないと」

「したような、してないようなというところだな」

 柳井は苛立いらだった様子を見せた。

「ねえ、朝永先生。学内でカミングアウトしている教員はわれわれだけでしょう。仲間みたいなもんじゃないですか。正直に、おっしゃっていただけないでしょうかねえ」

「何を」

「目を付けてるんじゃないんですか、彼に」

 私は厳しく相手の顔を見た。

「どういう意味かな」

「特別な感情を持ってるのかということです」

 柳井はしれっと言った。私は努めて冷静に答えた。

「彼は非常に優秀だよ。もし文系だったら、こちらの院に進学してほしかったくらいだ。そういう意味では、特別な学生だと思っている」

「ごまかさないでください。如月くんはゲイですよ。先生もわかってるんでしょう。それがご指名に影響したのか、聞いておきたいんですよ」

「さっき言ったように、指名したという認識はない。君の憶測のような関心も一切ない。大体、なぜ君がそんなことを知りたがるのか、それをこそ教えてほしいね」

 柳井は目を細め、私を懐柔しようとするかのような口ぶりで言った。

「ああいう目立つ学生の周りで不適切なことが起こらないように、気を配っているんですよ。他の先生方にはできないことを、ぼくは立場上、引き受ける義務があると思っているんです。――ああ、別に、朝永先生の人格を疑っているわけじゃありません。あくまで、念のために状況を確認したかっただけです」

「なら、もう用は済んだわけだ。失礼するよ」

 空疎な言葉をこれ以上聞くのは耐えがたかった。不快感を抑えながらドアのハンドルに手をかけ、付け加えた。

「柳井さん。言っておくが、学生の性的指向を云々するのはやめたまえ。第一に、君の推測は間違っているかもしれないし、第二に、研究教育指導には全く関わりのないことだ。いいね」

「ぼくは、間違ってはいない確信がありますけどね。……まあ、わかりました。どうも、失礼申し上げました」

 柳井の顔もろくに見ずに廊下に出て、ドアを閉めた。背後で含み笑いが聞こえたような気がした。

 ――つまりは、嫉妬だろう。――自分の研究室に戻り、授業の道具を片づけながら考えた。柳井は、如月に「不適切な」関心を抱いていると白状したようなものだ。そして、私が恋敵にならないよう、牽制してみたというわけだ。全くくだらない、無用の懸念だった。

 大学からの禁止がなかったとして、柳井が気にするような特別な関心を、私が如月に抱くことがあるだろうか? 柳井ぐらいの年齢なら、まだ身の内に生々しい欲求を感ずることもあるだろうが、彼は、さらに年を経れば、そうした生命力のうごめきもなくなっていくことを知らないのだ。……

 ふと腕時計を見て飛び上がった。委員会の開始時刻を三分過ぎている。資料のファイルを引っ抱え、研究室を出て会議室へ急いだ。

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