二 (2)

 如月が横に来たところで、柳井に言った。

「今学期、彼がぼくの授業のTAなんですよ」

「そうなんですか?」

 柳井はけげんそうに、如月に視線を走らせた。如月はこんにちはと言ったが、どことなく態度がぎこちない。

「如月くん」

 柳井は話しかけた。

「先に決まったTAがあるって、朝永先生の授業だったんですか。このコマなら、ぼくの授業とはかぶらないから、お願いしたかったんですけどねえ」

「スケジュール的に、TAをふたコマやるのは、無理なので……。すみません」

 如月は頭を下げた。

「では、このシンポの手伝いはどうですか」

 ポスターを手で示して粘る柳井に、引っかかるものを感じた。口調といい目つきといい、妙な熱を帯びている。

「受付と、会場での質問用紙の配布とかに、人手が要るんですよ。終了後の打ち上げで、学生にはご馳走することになってますよ」

「ちょっと時間の余裕がないです」

「まあ、柳井さん」

 私は割り込んだ。

「人が足りなければ、うちの学科の学生に情報を回しますから、後で必要人数を教えてください。では、これで」

 私は如月を促して歩き出した。視野の端で、柳井が長い顔に不満を浮かべているのが見えた。研究室に入ってドアを閉めると、如月は息をつき、肩の力を抜いた。

「先生、ありがとうございます」

「礼を言われるほどのことじゃないよ」

 如月に座るように勧め、ソファに落ち着いた彼に尋ねた。

「柳井先生に、TAを頼まれたの?」

「はい。今年の一学期に、仏語のTAに申し込んだら、柳井先生のクラスに割り当てられたんです。今学期も続けてやってほしいって言われたんですけど、思うところがあって、お断わりしました」

「ぼくの授業とは関係なく?」

「実は、そうです。理由に使ってしまって、すいません」

「別に構わないよ。君が困ってるのがわかったから。でも、前の学期はずっと一緒に仕事をしてたんだろう。大変だったんじゃないの」

「学期中のほとんどは、あんなふうじゃなかったんですよ。柳井先生とは、いい関係だと思ってました。リュック・ベッソンの映画が好きだって言ったら、背景情報をいろいろ教えてくれて、ほかのフランス映画の話でも盛り上がって、一時間くらいしゃべってたこともあります。その時はすごく勉強になりました。授業の手伝いも楽しかったし、仕事の前後にはフランス語とか、フランス文化の話もずいぶんしてたんですよ。様子がおかしくなったのは、期末テストが終わってからです」

「じゃあ、柳井先生はそれからずっと、君にからんでくるの?」

「からむってほどでもないですけど、時々、しつこくしてくることがあるんですよね。朝永先生が話を打ち切ってくださったんで、助かりました」

 彼は私を見て、ふっと笑った。

「そんな言い方をするってことは、朝永先生はあまり、柳井先生を良く思ってないんですね」

 指摘されて、苦笑するしかなかった。

「イエスともノーとも言えないな。同僚だからね」

「柳井先生も、ゲイをカミングアウトしてますよね。ぼくは最近知ったんですが、あれは前からですか」

「いや、ぼくよりも後だよ。ぼくが特に影響も受けてないのを見て、大丈夫だと思ったんだろうね」

「朝永先生は、切り込み隊長ってわけですね」

「さあ、どうだろう。生まれてこの方、そんなふうに呼ばれたことはないな」

 学生の前で言うわけにはいかなかったが、柳井が同性愛者であることを公言するようになってからの展開に、私は控えめに言って複雑な思いを抱いていた。彼はテレビの教養番組から始まって、次第にバラエティ番組やファッション雑誌等にも進出していると、若い教員や学生たちは話題にした。自分のゲイ的な特性を、柳井は先進的で都会的な文化のアイコンとして自己演出に利用し、それをメディアがもてはやすという構図だった。

 大学執行部は柳井のメディアへの露出を、構成員の多様性ダイバーシティを内外に示すいい機会だと見なし、彼を大学の広告にも登場させ、本学を代表する研究者の一人として扱っていた。日本の公の議論では、多様性はまだ新しい概念だったが、大学が国際的な競争力を持とうとするなら、今や決定的に重要なものでもあった。近年、目立って影響力を増してきた大学ランキング制度が、構成員の多様性を評価基準の一つとしているからだ。ランキングの順位は受験生や大学院進学者、研究費獲得等の面から、大学経営を左右する問題とみなされる。国内の他大学では、女性の雇用を増やしたり、家族支援サービスを提供したりといった対策がようやく始まったところで、大学コミュニティ内の性的マイノリティの存在を認め、かつ支持するというのは、当時としてはきわめて革新的だった。

 大学上層部が柳井を高く評価する一方で、私は、彼がマスメディアに盛んに登場することに違和感を覚えていた。アメリカにおける性的マイノリティの典型的イメージが、中産階級以上の白人で、芸術や学術など、創造的とされる職を持つゲイ男性であることを知っていたからだ。私の目には、柳井がこれに似たステレオタイプを日本で確立しようと積極的に動いているように見えた。そうした典型が出来上がれば、柳井のような人物には有利かもしれないが、そこに当てはまらない性的少数者には不利に働く可能性が高い。

 私は如月に訊いた。

「柳井先生は、君のことも知っているの」

「ぼくがバイだってことをですか? 自分から明かしたことはないですよ。でも、何となく嗅ぎつけているんでしょうね。誘われてるのかなって思ったこともありますから」

「それはいけない」

 私は顔をしかめた。

「教員が学生にそういう関心を持つことは禁止されてる。ハラスメントだと思ったら、すぐ正式な相談に上げなさい。学生相談委員会で、適切に対処するから」

「心配してくださって、ありがとうございます。大丈夫です」

 自信のある表情に、その話は打ち切った。彼はこれまでの人生で、幾度もこんなふうに言い寄られてきたのだろう。柳井とのことも、じきに忘れてしまうような、よくある出来事としか感じていないのかもしれない。だが、私の方は、柳井がこの先、如月に何か仕掛けるのではないかと気がかりだった。学期が進行中の間は親切に振る舞って如月を手なずけ、授業の運営に支障が出ないよう、試験後まで待つ。そうして如月の信頼を得た頃を狙い、接近を始めたのではないか。若年者を食い物にする大人は、しばしばそうした手を使うものだ。

 如月がまだ、柳井に親愛の情を持っているらしいのも気になった。廊下で会ったときも、あからさまに柳井を拒絶する態度は取らなかった。相手を嫌悪するというよりは、困惑しているようだった。その感情に付け込まれなければよいのだが。

「何か話があると言ったね」

 私は半分、如月が前回は話せなかったことを話す気になったのではないかと期待して尋ねた。

「はい。先生は、パワポは使わないんですか」

 瞬間、略語の意味がわからずに彼を見返す。

「パワポ……? ああ、パワーポイントのこと」

 彼はうなずいた。

「使ったことがなくてね。特に必要も感じてないし」

「今日、資料写真をOHPで出してたじゃないですか。パワポにした方が画像が鮮明に出ますし、操作も簡単ですよ。ノートパソコン、持ってますか」

 持ってはいると答えた。しかし、余った予算の消化のために購入したので、ほとんど使っていない。

「他の先生方、ノートパソコンを教卓につないで、画面をスクリーンに出してますよ。写真のファイルとキャプションの原稿をもらえれば、ぼくがパワポのスライドを作ります。授業中、時間が余って、暇ですし」

「写真、デジカメじゃないんだよ。銀塩カメラで撮ったやつだから、ネガとプリントしかない。あとは本からコピーした資料だな」

 如月は少し考えてから、言った。

「それなら、次回の勤務時間の間に、教材準備室のスキャナで作業します」

 まるでもう、私が嫌だと言うことなどあり得ないといった勢いだった。

 彼が話をどんどん進めるのに押され、私は慣れ親しんできたOHPから卒業するのを約束させられてしまった。参ったなと思いながら彼を見送り、一方で、それを不快とは感じていない自分に気づいた。

 不思議な明るい木漏れ日のようなものが、私の精神に差し込んできていた。

 その意味するところを、私はこの時まだ、認識していなかった。 

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