二 (4)


「ウェイクフィールド」を読み終え、授業は「痣」へと進んでいる。

 致し方ないことだが、私はこの邦訳タイトルが好きではなかった。原題のThe Birth-mark は、先天的にある痣、母斑のことを指す。英単語を読み解けば、生まれながらにあるしるし、という意味だ。日本語の「あざ」は身体をぶつけてできるものも表すが、こちらは英語ではbruiseという別の単語が用意されている。原題の持つ、ある種の運命的な響きを、日本語の「痣」では伝えることができない。

 十八世紀後半を舞台にし、科学者を主人公としているが、寓話的な物語だ。

 科学者エイルマーには、美の化身さながらの妻、ジョージアナがいる。〈自然〉がたった一つ彼女に残した欠点は、左頬の真ん中にある、人間の手の形に似た赤い痣だった。「小指二本の先で隠せるほど」小さな痣なのだが、エイルマーは科学の力でこの痣を消し、妻を完全な存在に高めるという妄執に取りつかれるようになる。錬金術の延長とみえる科学実験の繰り返しの末、作り出した薬を彼女に飲ませると、痣は見事に薄らいでいく。しかし、その最後の赤味が消失した時、彼女の命の火もまた消えてしまう。痣は彼女の生命の根幹を握る手であり、魂を死すべき肉体につなぎとめる絆だった――と、語り手は述べる。

 如月は授業に先んじて読み終え、感想を話したがった。研究室に招き、紅茶を淹れて座ると、彼は物思いにふける顔で言った。

「この夫は、彼女を愛していたんでしょうか」

「君はどう思う」

「物語の冒頭に、妻への愛という表現があるので、愛していたことになってるんでしょうけど、薬を飲ませた後の反応を観察して、ノートに記録したりしてるじゃないですか。実験動物の扱いですよね」

「うん。彼がいわゆる、マッド・サイエンティストの類として造形されているのは確かだ。君は、愛してなかったと思うんだね」

「わからないんです……。この妻の方が、夫のことを、完璧な存在しか愛せない人じゃないかと考える箇所がありますよね。彼女は、夫の愛が純粋で気高いからだとか言って、彼を満足させたいと願うわけですけど、それはありのままでは愛されてないってことじゃないですかね。でも、夫が痣を消そうと考え始めたのは、それがある限り、妻はいずれ死ぬと思い込んだからですね? 痣は、彼女が自然の産物だという証拠だからと」

「その通りだね」

「そうすると、愛する存在が死ぬのを防ごうとして薬を作ったとも考えられるわけで、やっぱりわからないんですよ」

「そういう疑問を持って、ああでもないこうでもないと解釈するのが、文学研究の始まりだよ。君はいい線行ってるんじゃないかな」

「そうですかねえ……」

 ペーパーバックを開いて物語の内容を確かめている彼に、尋ねてみた。

「語学が得意みたいだし、文学も読むんだね。今の専門に行ったのは、どうして?」

「自活するためです」

 彼は即座に答えた。

「関心のある分野は電子工学だけじゃないですよ。でも、ちゃんと自分で稼げるようになりたいんで、間違いなく仕事があるところに行こうと思ったんです」

「なるほど。しっかりしてるね」

「しっかりなんて、してないですよ。むしろ、しっかりしてないからこそなんですよ……」

 謙遜と受け取るには、真剣すぎる表情だった。

「これまでの君の仕事ぶりを見ると、責任感が強いし、能力も高いね。もっと自信を持っていいんじゃないかな」

 如月はしばらく黙って、膝に載せた本に視線を落としていた。それから私を見上げて言った。

「朝永先生は、ぼくをよく知らないからそう言ってくださるんだと思います。でも、同じように思う人が多いのもわかってます。うちの両親だってそうですから。学校の成績はずっと良かったので、親たちはぼくに、他の問題もないと信じてるんです」

「問題があった時、ご両親に相談したことはある?」

 彼は首を振った。

「親の理解を超えそうなことは、何も。うちの親は……保守的というのとは違いますけど、両親と兄は、何というかすごく、なんですよ。言いたいこと、わかります? 父は大企業勤めで、結構いい給料を稼いでて、母は専業主婦です。兄もサラリーマンで、結婚して子どももいます。それ以外の生き方は、普通じゃない、自分たちとは関係のない人たちがするもんだと思ってるんです。悪い人たちじゃないですけど、ぼくみたいなのが家族にいると知ったら、想像を絶すると思うんですよ。バイだと明かして、関係を壊したくないんです」

「お姉さんは知ってると言ってたね。そちらはどうなの」

 如月はわずかにうなずいただけで、再びうつむくと、本のページをぱらぱらとめくり始めた。何も読んではおらず、考えている様子だ。

「朝永先生、誰にも言いませんよね」

「言わないよ」

 彼はゆっくりと、話し始めた。

「姉は、薬剤師なんです。姉に話したのは、自分が病気を持ってないか、心配だったんで。その、将来付き合う相手に、迷惑をかけたくないじゃないですか。それで、姉に頼んで、検診を受けられるところを一緒に探してもらったんです」

 彼の話しぶりはどこか不自然で、無理に説明を作っているようなところがあった。だが、私は追求しないことにした。話しづらい話題だし、相手が教師ではなおさらだ。

「助言をもらったくらいだから、お姉さんは安心して話せる人なんだね。一人でも、頼れる人がいるのはいいことだね」

「そうですね」

 同意の言葉を口にしながら、彼はしんからそう思っているようではなかった。今の話の背後に、何かが隠されている。いくぶんかの真実を含んでいるのは間違いないが、すべてがそうではないのだろう。まだ彼から信頼されていないのだ。もっと時間が必要だった。

「いつでも、来たい時にいらっしゃい」

 彼が研究室を出る時に声をかけた。

「ありがとうございます。そうします」

 如月は微笑んだ。



 そんな話をしてからしばらく経った、六回目の授業の日だった。十一月も半ばとなり、大学構内の落葉樹は装いを変え始めていた。朝からの秋雨に濡れそぼった楓や銀杏の色が、陰った空の下の景色に点々と鮮やかに映える。

 私の母校は、今は職場でもあるが、大学が郊外に移転するのが流行はやった時期にも、東京二十三区内に留まることを選んだ。私が学生だった頃と比べると、キャンパス内は新しく造られた施設群のせいで建物の密度が高くなり、狭く感じるようになった。それでも、キャンパス中央近くの池の周囲や、敷地を貫く道沿いには、樹木やささやかな自然の名残がよく保存されていた。

 キャンパスの片側には教養部教室の建物があり、一年生の授業はほとんどここで行われる。文学部はそのすぐ隣にある。徒歩で二、三分の範囲には、法学、経済、教育の各学部がある。工学部と理学部の建物は、キャンパスの反対側に固まっている。文系側と理系側の敷地にはそれぞれ、図書館、学食、購買などが揃っているので、通常、間を行き来する必要はない。居場所の違う者同士が交流する機会も限られている。学生時代と、ここで働き始めて以来の年月を足すと、私は三十年以上もこのキャンパスに通ってきた計算になるが、工学と理学の敷地は見知らぬ領域のままだった。如月は、その未知の土地テラ・インコグニタに属する人々の中で、定期的に顔を合わせる唯一の存在だった。この頃には、授業で会うのが楽しみになっていた。

 教室に着くと、如月の姿がない。いつもなら、先に来て教卓コンソールの鍵を開け、機材を準備してくれているのだ。腕時計を確認する。自分で教務課に鍵を取りに行って戻ってくるには、少し時間が足りなかった。彼が来なければ、今日はスライド教材を使うのは諦めることにして、普段通りに復習用の小テストから始めた。

 小テストの解答時間がもう終わるという頃になって、急ぎ足で近づく音が廊下から聞こえてきた。如月が、息せき切ってドアを開けた。私の顔を見て何か言おうとするのを、唇の前に指を立てて黙らせた。テスト用紙を私が回収する間に、機材の用意をしてもらう。

 テストの採点と点数の記録を終えると、如月はホーソーンの短編集か、自分で持ってきた他の本を読むかするのが常だったが、今日は雨模様の外をぼんやり見ている。授業終了後、後片づけを任せて研究室に戻ろうとした時、声をかけられた。遅刻について詫びた後、彼は言った。

「先生。この後、空いていますか」

「うん。次のコマは空いているよ。その後は、会議だけど――」

「研究室に行ってもいいですか」

 切羽詰まった響きがあった。理由は訊かずに、いいよと答えた。



 研究室に戻ってローテーブルに茶器を並べ、紅茶の用意をした。小さいノックに続き、如月が入ってきた。座らせて紅茶を勧めると、彼は受け取ったが、カップに指を添えたまま、それが重すぎて持ち上げられないとでもいうように動かずにいた。

「あまり顔色が良くないね。冷めないうちに飲んで、身体を温めたらいい」

 彼はうなずいて、カップを唇に持っていった。

「痣」のヒロインのジョージアナが、動揺するたびに蒼白になる、すると普段は頬の薔薇色に紛れている痣がくっきりと輪郭を現す。彼の頬に痣はないが、最初の打ち合わせの時に薄玻璃のようだと感じた心の震えが、蒼ざめた皮膚を通して手に取れそうだった。

 いくぶんか紅茶を口にして、彼の唇に血の気が戻っている。桃色の、濡れた艶が下唇の内に垣間見える。目を逸らして自分の紅茶を飲んでいると、先生、と彼が呼びかけた。

「相談って、解決策がないことでもいいんですか」

「解決策がないと、判断しているの?」

「ええ、……自分では、どうにもできないことなので。ただ聞いていただければ」

「何でも聞きますよ。でも、念のためだけど、ぼく以外の選択肢もあるとわかっているかな。本職のカウンセラーの方が良かったりはしないの。学生相談室に予約を入れれば、そっちも使えるんだよ」

「いえ、朝永先生がいいと思って……」

 声が小さくなる。私は席を立ってドアを開け、廊下側に吊ってあるホワイトボードに、「学生面談中 話しかけ無用」と書いて再び閉めた。自分の椅子に戻って腰を沈める。穏やかに、促した。

「どうしましたか」

 喘ぐように、二、三回、彼の肩が上下した。

「彼が」

 声がかすれた。

「彼が、行ってしまうんです――」

 言うなり、気持ちの張りが弾けてしまったようだった。如月は両手に顔を埋め、声を殺して泣き始めた。

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