一 (4)

「いいよ。どんなこと?」

「先生は、学生相談の担当もしてるんですよね。相談室のパンフレットで見たんですが、バイセクシュアルを公表しているとありました」

「うん、まあ、隠していないくらいの意味だけどね。それで、相談の種類によっては、ぼくが担当することになっている。つまり、性的マイノリティに関連するような件はね」

 努めて自然に話そうとしながら、それでもぎこちない口振りになった。芯から落ち着いてこの話題に向き合うのは難しい。話を振られた時、それが雑談の一環なのか、真面目な相談の前置きなのか、はっきりしないことが多いからだ。私自身の性的指向セクシュアル・オリエンテーションが、相手には脅威や忌避すべきものに感じられていると知ることも、残念ながらあった。

「差し支えなければ、お聞きしたいんですが……。なぜ、公表しようと思われたんですか」

「たまたま、それが自然な流れだと感じるタイミングが来たからだよ」

 一昨年の夏、アメリカ現代文学のシンポジウムを聴きに出かけた時のことだ。テーマは少数派マイノリティの文学で、私が普段行くような種類のものではなかったが、企画者が古い教え子で、招待を受けたのだった。アフリカ系アメリカ人、アジア系移民、アメリカ先住民の文学と話題が進む中で、フィクションにおける性的マイノリティの視点について論じたパネリストがいた。聴きながら、どうもこれは当事者の感覚とはずれがあるのではないかと思った論点があり、質疑応答の時間に手を挙げ、当事者の立場からコメントした。公の場で自分の性的指向に言及したのは、これが初めてだった。

 その頃、私は個人的な状況のせいで、自分の性的指向を隠し続けるか、明らかにしたらどうなるかといったことを慎重に考える気力を失っていた。一方、その同じ状況が原因で、隠す意味ももはやなくなっていた。シンポジウムが終わった後、会場にいた昔の教え子や知人たちが、ある者は興奮の、またある者は困惑の面持ちで私を取り囲んだ時、私はやっと、自分が何かとんでもないことをしたらしいと、漠然とながら理解したのだった。

 私がバイセクシュアルだと「カミングアウト」したという話は、驚くべき速さで拡散していった。まずはアメリカ文学の研究者の間に伝わり、そこから職場の同僚へ、さらには大学上層部の耳にまで届いた。その頃、大学は学生相談の体勢を見直していたため、大学が多様性を支持する証として、私に相談委員会に加わってほしいとの要請が来たのだった。

 経緯を聞き終わった後、彼は尋ねた。

「公表して、困ったことはなかったんですか」

「多少、態度の変わる人たちはいたし、娘と息子からは文句も言われたよ。でも、同僚と研究者仲間に知られたところで、生活に支障が出るわけでもない。相談員の仕事が増えたのがいちばん大きな変化かな」

「結婚されているんですね」

「うん。今は、やもめ暮らしだけどね」

「――すみません」

「いや、気にしないで。訊きたかったことは、それだけ?」

 彼は顔を伏せ、組んだ指をためらうように擦り合わせている。まだ何かあるようだ。

「相談があるなら今、聞いてもいいし、改めて相談室での面談を設定することもできるよ」

「相談というほどでも、ないんです。でも、ここだけの話にしてもらえますか」

「もちろん。相談員には、守秘義務があるからね」

 少し間を置いて、彼は言った。

「ぼくも、先生と同じなんです」

「バイセクシュアルということ?」

「はい。知っているのは、姉と交際相手くらいです。でも、ずっと周囲に隠したままで生きていけるのかって考える時があって。それで、先生はどう思われるのか、聞きたかったんです」

「隠すべきとか、明かした方がいいとか、一概に言えるものじゃないね。個人の事情だけでなく、社会や時代の状況にもよるし。今、君が秘密にしておきたいのなら、そうしておくのが正解だと思う。隠さなくていい時が来たら、それは直観的に、腹でわかるものじゃないかな」

「……はい」

 小さく答え、彼がこちらに向けた目の表情に、胸を衝かれた。こぼれ落ちそうに光る潤みを、瞬きをせずにやっとこらえているのだった。部屋に入ってきた時の快活さが、剥き出しの感情に取って代わられていた。ほんのわずかな刺激にも震える、薄玻璃うすはりの器を見るようだった。

「聞いていただいて、ありがとうございます」

 彼は頭を下げた。

「いつでも聞くよ」

 私はそう言いながら、これは感触を探っただけに違いないと推測した。彼が本当に話したいことは、この先にある。

 相談に来た学生に、こちらからあれこれと促すことはしない。耳を傾ける姿勢を示して、自然に言葉が出てくるのを待つ。初めから堰を切ったように言葉が溢れてくる者もいれば、幾度か面談を重ねて、ようやく訥々とつとつと語り始める者もいる。話の核心に辿り着かず、いつまでもその周囲をめぐり続ける相談者もいた。

 彼がどのようなパターンを踏むのかは、相談員としての私との相性、信頼関係、そして彼の抱える問題の中身による。少し時間がかかるかもしれないと感じた。

 だが、学期は十五週間ある。その間は授業のたび、顔を合わせることになる。急ぐ必要はない。

 帰り支度をして席を立ちながら、彼は質問した。

「性的マイノリティの学生から相談を受けることって、どのくらいあるんですか」

「年に数件。四、五人だね」

「結構、あるんですね」

「この大学には二万人くらいの学生がいる。日本での性的マイノリティの割合について、信頼できる統計はないけど、ぼくの見かけた数字だと、人口の一・六パーセントというものから、五パーセントを超えるというものまで、調査によって幅がある。最も少ない一・六パーセントと仮定しても、性的マイノリティの学生の数は……」

「三百二十人」

 すぐ言葉が続かなかったのを、如月が継いだ。

「その通りだね。うち五人が相談に来たとして、多くはないんじゃないかな」

「そうですね」

 彼は微笑んだ。

 如月が帰るのを見送った。後ろから見ると、背丈の割に肩幅が狭かった。同程度の背格好の男性と比べると、威圧感がないのはそのせいか。彼が泣く寸前になったのを見たからかもしれないが、如月の後ろ姿には、思春期の子どものような頼りなさと、どこか可憐な雰囲気さえ漂っていた。

 研究室の扉を閉め、彼の涙を堪えたさまを思った。性的指向で悩むというのは、彼が若いからだろう。他の人間にどう思われるか、恋愛感情を抱いた相手に拒否されるのではないか、そもそも今後の人生でパートナーを得られるのか――そんな不安を持っているからだろう。相談に来る学生たちは皆そうだ。私はそんな段階をとうに過ぎ、心から彼らに共感するというよりも、少し引いた場所から彼らを見守る立場だった。彼らは時にまぶしく、また時に、自分自身の過去の影のように感じられることもあった。

 いずれにせよ、私は性的マイノリティの学生たちを、ストレートの学生よりも自分に近い存在とは思っていなかった。一方で学生の方は、私が他の相談員よりも自分のことをわかってくれるだろうと期待してやって来る。私は彼らを理解しようと努力はしたが、偽りの親身さを演出しているという罪悪感がつきまとった。しかし、大学の執行部直々の依頼とあっては、相談員就任を断ることはできなかった。

 書棚の扉を開け、ヘルマプロディートスの写真を収めた額縁を取り出した。ガラス面を撫でると、指にうっすらとほこりが付いた。布巾で全体をきれいに拭き、再びその古代の想像力の化身を眺めた。

 流水の精霊・サルマキスの棲む泉にヘルマプロディートスが訪れたのは、彼が十五歳の時だったという。サルマキスは彼への恋心を拒絶され、強引に自分と彼を一体としたが、ヘルマプロディートスは両親のアプロディーテーとヘルメースに、この泉に入る男はみな自分と同じ、半分だけの男の身体となるようにと祈った。彼の願いもまた聞き届けられた。彫像は彼の若い年齢を反映して、成人の像と比べ、すんなりと華奢な体躯に表現されている。

 額縁の裏を開ける。そこに、この彫刻を反対側から写した写真が入れてあるのだった。美しい弓なりの背とでん部からは、性別不詳の若い人物像としかわからない。まぶたを穏やかに閉じた寝顔を、若者は片方の腕に載せている。通った鼻筋に、薄く開いた唇。波打つ髪はうなじを見せて巻き上げられている。裸像とはいえ、作者の意図は官能性よりも完璧な美の追求にあったと想像できる。血の通わぬ石材でありながら、写真の像は柔らかな肌と肉を持つ人間さながらだ。内側から生まれ出る命の息吹が、彫刻家の手によって永遠の時間の中に凍結された、その姿。

 あれから、十数年の月日が経っている。ひとりきりの旅路にあって、私は何を思ってヘルマプロディートスにカメラを向けたのだったか。

 恋と呼べる感情の最後の一片が私の心身を離れていったのは、あの年だった。

 写真と額縁を元通りの場所に収め、二人分の茶器を流しで洗った。作業を終えて顔を上げた時、流し台の上の鏡に映る自分の顔を見た。――君は、全体は東洋的だが、鼻はギリシア人のようだね。――と、かつてアメリカ人に言われたことを思い出した。髪が減って生え際が上がったせいか、元々濃い眉が一層目立つようになり、鼻の形とともに亡き父の容貌にますます似てきている。下唇の左端には小さなほくろがあり、若い頃には輪郭がはっきりしていたのだが、年とともにぼやけてきた。色も薄れて、肌の色に溶け込みそうになっている。

 丸みの強くなった顎に触れる。緩んだ皮膚から出たひげの先が指を突いた。如月燎の、髭などないように滑らかな顎の皮膚が思い出された。学期が始まる前に、床屋に行っておこう、と思った。 

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