一 (3)
ノックの音を聞いて、ドアを開けに立った。如月です、と声がしている。レバーハンドルを引いてドアを開けた瞬間、私は無言でそこに
「こんにちは」
「……君か」
ようやく声を見つけて言った。
「思い出した。ぼくの授業にいたことがあるね」
「憶えてましたか。良かったです」
室内に入るよう促した。彼はソファとローテーブルの間の狭い空間に歩み入り、長い脚を窮屈そうに折り畳んで腰かけた。改めて彼を見る。明るい色の目と、肩に触れるほど長く、不揃いに重なる先端が柔らかく丸まった髪の、赤みがかった艶。それでいて、細い
三十人ほどの英語のクラスの中でも、彼の容姿は目を引いた。しかし、当時は周囲の新入生たちと同様に幼く見えたせいか、あるいは私が他のこと、特に家庭の問題で頭を悩ませていた頃だったためか、この日ほど印象に残ることはなかったのだった。
「修士一年ということは、四年ぶりになるかな」
「そうなりますね。先生の授業を受けたのは、一年生の一学期でしたから。エドガー・アラン・ポーを読む授業でした。『黒猫』とか、面白かったですよ」
「ポーの作品には、現代のエンターテインメントに通じるものがあるからね。あの時は、珍しく好評だったな」
「珍しく、ですか」
「古い文学作品の魅力は、なかなか若い人には伝わらないよ。ぼくのやり方がまずいのもあるだろうけどね」
「そんなこと、思いませんよ――」
彼は目の前のテーブルに目をやった。
「今学期は、これを読むんですか」
テーブルには、ペンギン・クラシックスのペーパーバックを置いてある。ナサニエル・ホーソーンの短編集で、ポーのものと同時代に書かれた作品群だ。
「そう。ハーマン・メルヴィルと並ぶ、十九世紀アメリカの代表的文学者だよ。メルヴィルは知っているかい」
「『
「ほお。そんなことに使われているとはね」
ホーソーンの作品で最も有名なのは長編小説の『
私はペーパーバックを彼の方に押しやった。
「この本は、学期末まで君が使ってください。業務の一つは、それを使って学生用のコピーを作ること、それから……」
一緒に書類を見ながら、毎回の小テストの採点と記録の取り方などを説明し、授業スケジュールの確認をした。彼はふんふんとうなずきながら聞いている。
話をしながら次第に、彼が新入生だった頃の様子も思い出してきた。よくできる学生で、授業中に当てても、下を向いたり、どもったりすることがなかった。英文を書く力も、学部生としては高かった。ただ、呑み込みの早さが災いしてか、講義中に視線と注意がどこか
彼のそうした振る舞いが引っかかったのは私だけではなかった。彼が出席していた別の英語授業の教員は、彼の態度に加えて髪が赤く見えるために、不良ではないかと怪しんでいた。ある世代から上にとっては、赤く染めた髪は反抗的な若者の象徴だからだ。しかし、如月の髪の色は生まれつきのものだった。よく見れば眉も睫毛も、また夏の半袖シャツから突き出た腕の産毛も、髪と同じ赤みを帯びているのでわかる。私はそう指摘したのだが、相手は納得しなかった。
――せめて、髪をこざっぱりと切ればいいと思うんだがね。男のくせに、あんなに長く伸ばしていないで。――
もう定年を迎えて退職したその先輩教員が、そんな文句を言っていたのを思い出す。
「時間があれば、お茶を淹れるけど、どうですか」
一通りの説明を終えて、私はいわゆる
「先生は、こういうのを使う趣味があるんですね」
如月は珍しそうに、ウェッジウッドのティーセットを眺めた。
「うちの研究室だったら、マグカップか紙コップになっちゃいますね」
「ぼくが買ったものじゃないんだよ。父が、英文学者でね。亡くなった後に、英国製の茶器がいろいろ、ほとんど使われないまま残っていた。もったいないから、いくつかもらってきたんだ」
――アメリカ文学? ――
三十年以上も前の、父の不機嫌な声が遠くからこだました。
――植民地の文学じゃないか。――
彼岸から鋭い冷気のように吹きつける父の声をやり過ごし、茶葉と沸騰した湯をポットに入れた。抽出時間を計るため、三分用の砂時計をテーブルに置く。
「それ、いいですね。どこで手に入れたんですか」
彼は訊いた。
「いつも茶葉を買う専門店があって、そこで買ったんだよ。実は、もう三つ目でね。何年か使っていると、この狭いところに砂が詰まって、落ちなくなってしまう。砂の材質のせいかな。見てわかるだろうけど、自然の砂じゃなくて、人工だからね」
「時々、よく振ってやるといいかもしれませんね。砂が動くように」
「なるほどね。やってみるかな」
薄紫色の砂がガラス管の下半分に落ちきるのを待って、紅茶をカップに注ぎ分ける。彼は礼を言って手を伸ばした。磁器の白い肌にパウダーブルーと金彩のカップは、直線的に塗り分けられた色が鮮やかなコントラストを生んでいる。茶器には女性的な色柄のものが多いが、これは力強く、男性的な意匠だった。それが彼の手の中でよく似合った。
彼は特別にしゃれた服装をしているわけではなく、ジーンズの上にオックスフォード地のシャツの、それもアイロンが十分でないものを着て無造作に袖口をまくっているのだが、彼の長い指や繊細な顔の造作は、個性が前面に出ない服を背景に一層際立っている。口に出すのは控えたが、美しい景色だった。
私が見ているのに気づき、彼は微笑した。他人の視線を集めるのに慣れている。私は半ば言い訳、半ば本音で言った。
「一年生の時とは、印象が変わったね。落ち着いた感じになった」
「そうだといいんですけど。あの頃の自分って、ガキっぽかったなと思いますし。生活もだいぶ変わりました」
彼は茶を飲みつつ、研究室のあちこちに目をやった。
「先生、アートが好きなんですね」
室内のパーティションや金属製の書架に、美術作品の写真をあしらったマグネットや絵葉書が二ダースほども張りつけてあるのを指して、彼は言った。
「旅先に美術館があれば、大体行くからね。いつの間にか増えてしまったよ」
カップを置いて立ち上がり、フェルメール、ブリューゲル、ターナー、トマス・コールといった画家の作品を順に眺めるうち、彼の目は扉付き書棚のガラスを覗き込んで止まった。視線の先には、小さい木製の額縁に入れた、彫刻作品の写真があった。
「これは、不思議な彫刻ですね。女性像かと、思いましたが――」
彼は最後まで言わずに口をつぐんだ。私は苦笑した。
「だから、あまり目に付かないようにそこに入れたのに。君は目ざといね」
女性にはないはずのものが、その像にはあるのだった。若々しい裸体は大理石のマットレスの上に半ば腹這いになり、枕に載せた両腕に顔を埋めている。脇の下にははっきりと
「ルーブル美術館のものだよ。『眠れるヘルマプロディートス』という。人物像はローマの遺跡で発見されたもので、マットレスの彫刻は十七世紀に付け加えられたそうだ。ギリシア神話の知識はある?」
「少しは」
「伝令の神ヘルメースと、愛と美の神アプロディーテーの間に生まれた子どもだから、二つの神を合わせた名前になっているんだよ。もとは美しい少年の姿だったのが、ニンフ、女の妖精が彼に恋をして、神々に頼んで彼と一体化してしまった。それでこのような姿になったという神話がある」
「そんな願いを聞くなんて、とんでもない神様たちですね」
彼は笑い、
「でも、印象的というか、一度見たら忘れられない感じですね……」
と付け加えてソファに戻った。
紅茶を飲み終えると、如月は少し緊張した面持ちで口を開いた。
「実は、TAの仕事とは別件で、質問があるんです。今、いいでしょうか」
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