一 (2)


 最初のしらせは、文学部の廊下で待っていた。

 翌週に秋学期の開始を控えたその日、私は会議を終え、大学本部の建物から出た。秋分を過ぎ、陽の光や朝夕の気温には爽やかさが感じられるようになっていた。理工系学部の会議参加者とは逆方向に分かれ、文系学部の教員たちと歩いて研究室へ戻る途中、若い女性教員が話しかけてきた。

朝永ともなが先生。さっきは、すごく学生に寄り添った意見を出されましたね。いつも冷静でらっしゃるのに、今日は熱意を感じたので、驚かされました」

「そうでしたか?」

 私は狼狽を押し隠した。会議の場でやや強い口調になった自覚はあったが、周囲が見て取れるほどとは思わなかったのだ。

「毎度、会議には真面目に臨んでいるつもりですが、今回のケースはひどかったですから、そのせいでしょうね。場にふさわしくない言動でしたら、お詫びします」

「いえいえ、そんな意味じゃないです。わたし、この委員会に入ってから四年になりますが、こういうケースであれだけしっかり被害者の女性側に立ってくださる男の先生って、少ないんですよ。感動しました」

「ありがとうございます」

 彼女が教育学部の建物に入るところで別れ、隣接する文学部の玄関をくぐった。

 二〇〇九年、教授になって三年目のことだった。勤務校では、各学部に学生からの相談ごとを受け付ける教員を置く仕組みがあり、私も文学部でその役目を担っていた。時に、相談にはいわゆるアカデミック・ハラスメントを疑わせる事案があり、相談に来た学生の希望によっては、調査と対応の検討が行われる。今日の議題は、ある学部の男性教授が、中国人留学生の女性に性的ハラスメントを働いたとされるケースだった。会議出席者は、問題となる行為があったのは間違いないという判断で一致したのにも関わらず、男性教員の一部は、くだんの教授が非常に反省しているというのを理由に、甘い対応に持っていこうとしていた。女性の方にも、教授との交際から利益を得ようとした形跡が認められるからともいうのだった。私は断固反対した。力関係に圧倒的な差があるのに、両者に同等の責任を求めるのはナンセンスだと主張した。論理的な議論をしたつもりだが、奥底の感情が外に洩れ出ていたのだろう。教育学部の教員は好意的に受け取ってくれたが、長年自分に課してきた職業倫理からすると、失態といえた。しかも、その感情がどこから出てきたものか思い当たるだけに、いたたまれなかった。

 ――やめよう。――

 頭を振って思考の連鎖を断ち切った。ハラスメント案件の処理にあたる教員には守秘義務が課されている。結論が出た後は、すべて忘れた方がいい。

 文学部の中央階段を二階へ上っていくと、廊下に同僚の樋口ひぐち眞佐美まさみ教授がいた。紺のスカートスーツにパンプスの姿で、小脇に書類ファイルを抱え、個人研究室のドアを開けようとしている。私の足音に気づいて振り向き、眉を上げた。

「あら、朝永さん。ちょうど良かった。この後、空いてる時間はある?」

「今から空きだけど、何だい」

「少し話があるの。お時間もらえるなら、寄ってくれるかしら」

 うなずいて、彼女の研究室に招き入れられた。

「樋口さんも、会議だったの?」

「そう。外国語教育責任者会議。こんな学期前の時期にやらないでほしいんだけど、委員長が来週、不在だからって。朝永さんも?」

「あれだよ。学生相談委員会の……」

「ああ、ハラスメント関係。それじゃ、仕方ないわね。延ばせないものね」

 樋口さんがファイルや鍵を片づける間に、椅子の一つに腰を下ろした。少人数のゼミならここでできるように、部屋の真ん中に長机を据え、周囲に折り畳み椅子を配して、奥に仕事用のデスクとパソコンを置いている。視線の先の書棚に、シルヴィア・プラスやケイト・ショパンの原書、エドワード・サイードのオリエンタリズム論、ジュディス・バトラーの著書などが並んでいるのを眺めるうち、樋口さんの豊かな身体が視界に入ってきて、景色をさえぎった。

「実はね、今日の会議で出た件なの」

 口ぶりから、私には嬉しくない話だろうと予感した。

 私たちが初めて会ったのは学生時代、日本アメリカ文学会の大会でのことだ。彼女は修士課程、私は博士課程のそれぞれ一年目だった。大学院は別だが、前後して同じ大学に就職した。長い付き合いだから、互いに遠慮会釈がない。樋口さんの丸い頬と少しばかり上を向いた鼻、小さいがよく光る目は、機知に富み、はつらつとした若い女性だった頃の雰囲気を残している。もともとふくよかだったところに貫禄がついて、昨年教授になった頃からはある種の風格すら漂わせるようになっていた。今年度は英語科目の責任者でもある。

 樋口さんは席に座ると膝に手を置き、真剣な話をする姿勢になった。

「今学期の朝永さんの英語、ホーソーンを読むんでしょう。シラバスで見たわ」

「うん、三コマのうち一つだけね。他の二つは、市販の教科書を使う授業だよ」

「でも、その二つは初級の授業よね。編集してない文学作品は読めないからでしょう」

 私は先回りした。

「中級の学生たちは十分、知的刺激のあるものを読む力があるよ。ホーソーンの短編小説が難しすぎることはないし、第一、読書体験としても素晴らしいじゃないか」

「あのね、朝永さん。会議では、語学教育アンケートの結果が出てきたのよ。外国語カリキュラムの更新時期に、いつも全学の教員を対象にやるでしょう。その自由記述のところにあった意見なんだけど、文学作品を読ませるのは役に立たないから、やめてほしいって」

「どこの学部の先生?」

「工学部。自分が学生の時も必修授業がそれで、関心を持てずに辛かった、って」

「そんなことだろうと思った」

 ため息が出た。工学部。外国語教育の方針に批判が出る時は必ずといっていいほど、工学部が急先鋒に立っている。

「もう、必修で文学を読ませるのはぼくだけだろう。一つ残らずつぶさないと気が済まないのか? 語学の授業を、会話と外部試験の練習で埋め尽くせとでもいうのか」

 私が協力的でなさそうなのを察して、樋口さんは眉を寄せた。

「この先生だけの意見じゃないのよ。同じような批判は前からあるし、学生からも聞こえてきてるのよ」

「知ってるよ。だけど、一年生の必修授業で文学を読ませなかったらどうなる? 文学を専攻する学生以外は、大学で文学を学ぶ機会がなくなるんだ。TOEIC対策の授業も、役には立つだろうさ。でもそれは、大学教育と呼べるものじゃない。少なくとも、高等教育の名にふさわしいものじゃないね」

「外部試験の点数が上がる方が、『上』の人たちからの評価は高くなるのよ。わかってるでしょう? ただでさえ、日本人の英語教員は全部ネイティヴ・スピーカーに取り替えるべきだと言われてるし、専任の身分がなければとっくにそうされてたでしょうね。自分の研究関心を優先して授業をしてたら、ますます立場が悪くなるわ」

「樋口さん」

 私は懐柔に回った。

「あなただって、評価を上げるために授業をしてるわけじゃないだろう。学生のためにやっているはずだ。樋口さんの書いたエミリー・ディキンスンについての論考、三年ほど前だったと思うけど、あれは素晴らしい英文だったよ。言葉の使い方に詩的な響きがある。ああいうものこそ、学部生に読ませれば、きっと大学院への進学者も増えて――」

「話題を逸らさないで」

 低く、断固とした声にさえぎられた。

「朝永さん、都合が悪くなるとすぐそうやってはぐらかす。その手はとっくの昔にばれてるんだから、わたしには通用しないわよ。次年度早々には、新カリキュラムに向けて動き出さないといけないの。もっと標準的な教材を用意してもらわないと、わたしの方で選んで、これでやってってお願いすることになるかもしれないから、文学以外の可能性も考えてほしいのよ」

「何度も考えたさ。その上で、文学にまさ るものはないと結論を出したんだ」

 樋口さんはつくづく私の顔を眺めた。私は彼女が次に繰り出すどんな言葉にも反駁できるよう身構えていたが、深い嘆息のあと、彼女は言った。

「今日はもうやめるわ。でも、いつまでも現状を見ないふりはできないのよ。朝永さんだって、それは理解しているでしょう」

 はやばやと引き下がられたことに、安堵よりも罪悪感を覚えた。席を立ち、ドアを開いたところで、言い訳がましく付け加えた。

「さっきの話、はぐらかすのに出したわけじゃない。あの論考は、いずれ本の一章にするって言ってただろう。その後どうしたのか、気になっていたんだよ」

 樋口さんはパーマのほつれた髪を耳の後ろに押しやり、私を見つめた。

「気にかけてくれてありがとう。取り組む時間があればとは思ってるけど、どうも、そういう立場じゃなくなったわ。……そうそう、一つ忘れてた」

 気を取り直すふうに、樋口さんは言った。

「そのホーソーンの授業、TAを付けられることになったわ。朝永さん、申請していたでしょう? 一人、追加で採用できたの。本人からメールが来るはずよ。あなたの天敵の工学系だけど、珍しく語学の好きな学生みたいだから、仲良くやってね」

 礼を言って、樋口さんの研究室を辞した。ドアが閉まる音を背後に聞きながら、自分の態度を悔やんだ。

 ――子どもじみた抵抗をしてしまった。――

 彼女の主張が正当なのはわかっているのだ。大学で英語を学ぶ意味は、昔とは様変わりしている。英米文化を学ぶ教養教育の一環だったのが、今は仕事のためのスキルとしての面が重視されている。彼女はその変化に合わせ、真面目に仕事をしようとしているだけなのだ。

 樋口さんと私も、年齢を経て変わった、と苦い実感もあった。かつての私たちは、自分の興味の追求にも、他の魂に寄り添うことにも、もっと情熱を持っていた。だが今や、彼女は研究関心よりも中間管理職としての職責を優先させ、私は彼女の要望がまっとうなものだと知りながら、かたくなに自分の領分を守ろうとしている。研究と教育の同じ理想を共有しているはずなのに、守るものの多さと意地が間に立ちはだかり、歩み寄れないのだった。

 自分の研究室に戻り、メールを確認しようとパソコンの前に座った。TA(ティーチング・アシスタント、授業補助)に採用された大学院生は、学期開始前に担当授業の教員に連絡して、仕事内容の指示を受けるきまりだ。メーラーを開くと、確かに「TA担当について」という件名のメールが届いている。メールの本文を開き、差出人の所属と名前を確認する。

 工学研究科電子工学専攻、修士課程一年、如月燎。

 見覚えのある名前だった。新入生の頃に必修の英語授業で担当した学生だろうが、顔は思い出せない。しかし、漢字の組み合わせが印象的な姓名なので、記憶に残っていたのだろう。

 如月、旧暦の二月――「きさらぎ」という読みは「衣更着」に由来するともいわれ、衣を重ねて着る寒い季節を指す。一方、如月という漢字は、冬が去り、万物が春に向けて動き出す季節を意味する。いわば一つの言葉の中に、二つの季節が同居しているのだった。

 燎という名も、読みはありきたりだが、漢字は珍しい。明るく燃える火、かがり火や松明たいまつを意味する字だ。

 冬枯れの大地に燃える火か――それとも、春のきざしを照らす火か。

 今日、この後の時間、もしくは明日の午後に打ち合わせをしたい由の返信を送ると、五分と経たないうちに研究室の電話が鳴った。

「如月です。これからうかがってもいいですか」

 くっきりと明るい声だった。反応の早さに驚きながら答える。

「いいですよ。何時頃に着きますか」

「今、先生の建物の近くにいるんで、すぐ行けますよ」

「ああ、……それじゃ、十分くらい後に来てください。その間に、説明の用意をしておきますから」

「わかりました。十分したら行きます」

 快活な返事とともに、電話は切れた。

 私はTAへの指示を列挙した文書をプリンタで打ち出した。ソファ前のローテーブルから書類や本の山を片づけ、場所を空ける。そこに指示文書と授業のテキストを並べて、彼を待った。

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