第参話 市役所駅 ~陸~


 大浦天主堂の見学を終えた旅寝駅夫と星路羅針は、少し気持ちが重かったが、長崎という地が刻んできた歴史の闇に触れたことで、自分たちが生きてきた半世紀に亘る時間が、あまりにもちっぽけで、あまりにも儚いものだったのだと、自覚させられたような気がした。

 彼らが歴史の闇の中で、足掻き、藻掻き、苦しみ抜いた艱難辛苦に比べたら、二人が歩んだ半世紀の苦しみなど、蚊に刺された痒みにも及ばないだろう。

 しかし、歴史というものはそう言うものだ。先人の苦しみの上に、今の世が成り立っているのだから。そして、蚊に刺された痒み程度の苦しみの上に成り立つのが、次の世代の若者たちなのだ。


「でもよ、俺たちの苦しみが蚊に刺された程度なら、若者たちの苦しみはなんだ?」

 駅夫が至極真っ当な疑問を浮かべた。

「さあな、ビリビリ玩具位かもな。」

 羅針が、碌な例えが浮かばず、ひねり出したのが、触ると電流が流れる玩具である。

「おいおい、それじゃ彼らの苦しみは悪戯程度って事かよ。」

「そう言うことになるな。」

「ひでぇな。」

「もちろん先人の苦しみに比べたらだぞ。本人たちにとっては、エベレストよりも高い苦しみだろうからな。それでスケール調整したら、先人たちの苦しみは、宇宙よりも広大な苦しみになっちゃうだろ。」

「なんか、またけむに巻かれたような気がするが。納得しとこう。これ以上掘り下げると、俺の頭から煙りが出てきそうだからな。」

「ああ、そうしとけ、俺も何言ってるか分からなくなってきたから。」

「なんだよ、それ。」

 二人は、声を上げて笑った。


 二人がそんな冗談を言い合っている内に、次の目的地グラバー園に着いた。

 大浦天主堂の脇から、グラバー通りを抜けて階段を上がり、第一ゲートから入った。この日は丁度夜間開園中で、いつもなら閉園の時間だが、まだ中に入ることが出来た。


 グラバー園は長崎開港後に来住したイギリス人商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築して、野外博物館にした施設である。明治期の洋風建築を知る上で貴重な資料だそうだが、どう見てもデートスポットの様相を呈している。

 右を見ても左を見てもアベック、いやカップルだらけである。


「なんか、場違いなところに来た気がしないか。」

 駅夫が居心地悪そうに言う。

「気にするな、人は人、俺たちは俺たち、彼らはデート、俺たちは見学だ。」

 羅針はそう言ったが、まるで自分に言い聞かせるようだった。

「なら、俺たちもカップルみたいに腕組むか。」

「組まねぇよ。ほら行くぞ。」

 動く歩道の様なエスカレーターに乗る。左手には長崎の市街が見下ろせ、長崎という街が海を囲み、山に囲まれた狭隘の地形だと言うことが良く分かる。

 傾き掛けた陽が、長崎の街を照らし、赤く染まり始めていた。


「綺麗だな。」

 駅夫がうっとりとした目で眺めていた。まるで乙女である。

「確かにな。この美しい街に悲惨な歴史が刻まれてきたんだな。」

 羅針は、ふと先程見た大浦天主堂の悲惨な歴史を思い出した。

「そうだな。その上、原爆だろ。この景色を見ると蚊に刺されたほどの苦労で済んでる俺たちは、感謝しなきゃな。」

 駅夫が、また重苦しくなった気分を払拭するように、さっきの話を蒸し返す。

「だな。ってそれを蒸し返すのか。」

 羅針は駅夫に拳骨を叩き込むフリをする。

 二人は声を出して笑った。しかし、その笑いは乾いていて、押し潰されそうな心を誤魔化すように、無理にでも笑っているようだった。二人の笑い声に驚き、前にいたカップルが振り向いた。


 一番上に上がると、もう一つの入り口が見えてきて、そこに建っている〔旧三菱きゅうみつびし第2ドックハウス〕から、二人は見て回る。

 この建物は三菱造船所みつびしぞうせんじょにあった、外国人乗組員用の宿舎で、ドックで修理中に修理が終わるまでここで過ごしたと言う。内部は当時使われていた事務用品や調度品が見られ、イギリス国旗も飾られていた。二階のベランダに出ると、ここからも長崎の街並みが一望でき、長崎湾全貌を見下ろすことが出来た。

「この景色、写真で見たことあるぞ。」

 駅夫が景色を眺めながら、嬉しそうに言う。

「有名な場所なんだろうな。確かにこの景色は見覚えがあるな。」

 羅針も、一眼で撮影しながら、同意する。

「ここは、記念撮影だろ。」

「そうだな。」

 二人はいつもの通り記念撮影をした。


「さあ、暗くなっちゃうから、次行こうか。」

 羅針が、いつまでも眺めている駅夫を促す。

「ああ。」

 名残惜しそうに駅夫が頷いた。


 二人は、順路に従って、建物や造園の美しさを堪能していった。

 建物はどれも瀟洒しょうしゃと言う言葉がぴったりの洋風建築で、良く観光地で見かけるようなレンガ造りの建物とは違い、木造建築であることも、その美しさを際立たせているように感じた。


 説明書きを読むと、それぞれの建物に歴史があり、時流に乗って日本で莫大な財産を築き上げた人々がその歴史の主人公だった。

 開国し、新たな時代に進む日本へ、夢を抱いた外国人商人が集まったと言えば聞こえは良いが、当時の日本、延いてはアジア諸国は、西洋諸国にとって恰好のカモだったのだ。それが証拠に、様々なアジア諸国が植民地になり、西洋諸国の支配下に陥ったのだ。もちろん日本も例外ではなかったが、幕末の志士を始め、明治政府の重鎮たちは、彼らにあの手この手で対抗し、アジアに日本ありと認めさせてきたのだ。

 ここにも、先人たちの苦労が歴史に刻まれていた。


「もし、植民地にでもなってたら、今頃日本はどうなってたんだろうな。」

 駅夫が羅針の話を聞いて、そんなことを言う。

「歴史に〔if〕はないって言うけど、もし、そうなっていたら、日本語はとうに使われなくなり、英語かスペイン語か、はたまたフランス語やポルトガル語、もしくはオランダ語とかロシア語なんかが公用語になっていただろうね。丁度日本が台湾や朝鮮で日本語政策を推し進めたようにさ。」

 羅針が歴史のifを言う。

「まじか、そうなったら俺言葉しゃべれなかったじゃん。英語なんて大の苦手なのに。お前は良いよな。外国語得意だから。」

 駅夫がそんなことを言う。

「子供の頃から日本語は禁止され、外国語だったものが母国語となるんだ。自然と身についてるよ。お前でもな。」

 羅針が駅夫の不安を否定する。

「だったら、英語とかで苦労することないじゃん。」

 よほど学校で習った英語が苦手だったのか、駅夫がそんな風に言う。


「あのな。植民地ってのは言葉だけじゃないんだ。人も文化も経済も何もかもが支配され、制御されていくんだ。宗主国の思惑一つで、何もかもが禁止になり、自由が奪われ、文化が破壊されていくんだよ。

 お前が好きな歴史だって、学ぶのに日本語使えているメリットはもの凄く大きいんだぞ。

 当時の資料を見たりしても、同じ日本語だから、何となく理解できるし、同音異義語であっても、その違いが判別できる。ところが、日本語を解せないと、歴史を学ぶために一から日本語を、日本語の文字を学ばなければならないんだ。その困難たるや日本人が英語を学ぶ比ではないぞ。

 日本語を流暢に喋る外国人でも、漢字が読めなくて苦労している人は、今の時代でも大勢いるんだからな。」

 羅針が、外国語学習に一家言いっかげんあるのか、そう捲し立てる。


「そうかも知れないけどよ、日本人だって漢字覚えるの大変なんだから、漢字なくしちゃえば良いのにとか思わねぇか。」

 駅夫がそれでも喰らいつく。

「あのな。日本語は同音異義語が多いんだ。すべてひらがな、もしくはカタカナで書いてみろ、分かち書きしてあったとしても、読みにくいし、理解するのに苦労するぞ。

 韓国・朝鮮がハングルを使ってるのは知ってるよな。彼らが漢字を使わなくなって久しいが、漢語由来の言葉が残っているため、同音異義語に苦しめられているって聞くぞ。なんせ、音で理解してるから、その音が示す元々の意味、つまり漢字が思い浮かばず、判別できなくなっているそうだ。もちろん代替語があるから、日常で困ることはないだろうが、色んな場面で弊害、つまり意思の疎通ができなくなっているそうだ。一時期漢字復活の機運まで高まったと言うから、事は深刻だったんだろうな。」

 羅針が、更に捲し立てる。


「そうなのか。そこまで言われたら、日本語を母国語として使えることに感謝しなきゃな。でもよ、だったら外国語なんか学ばなくても良いじゃん。英語なんてやりたい奴だけ学べば、あんなに苦労する必要はなかったのに。」

 駅夫がまだそんなことを言う。

「英語を学ぶのは、英語を学んでるんじゃないんだよ。」

「なんだそれ、じゃ何を学んでるんだよ。」

「日本語を学んでるんだよ。」

「なんでだよ。英語を学んでなんで日本語を学べるんだよ。」

「簡単なことだよ。日本語は国語、つまり母国語として学ぶ。文法とか言葉の機微とか、言葉の持つ微妙な違いみたいなものを、何となく理解した状態で学ぶんだ。だから、国語の授業は文法よりも、作者の意図は?とか、文章の要旨は?とか、そう言う内容を理解することに重点を置いて学ぶんだ。

 ところが英語って言うのは、外国語だから、当然、文法や言葉の微妙な意味の違いが、日本語と異なる。当然内容も大事だが、文法を重点的に学ぶ必要がある。それを一から学ぶことで、日本語との違いを学び、日本語と比べることで、英語だけではなく、日本語そのものを外国語の目線で学ぶことになるんだよ。」

「なるほどな。なんか分かったような、分からないような。」

 駅夫が狐につままれたような表情をしている。


「難しい話は抜きにすると、要は植民地にならなくて良かったなってことだよ。」

 羅針がざっくりと今までの話を一言で纏めてしまった。

「なんだよ。また俺は煙に巻かれたのか。」

 駅夫が恨めしそうな視線を羅針に送る。

「そう言うことだ。俺に語学の話をさせるなって事だよ。」

 羅針が笑って、どやる。

「肝に銘じる。難しすぎて、頭から煙が出そうだよ。」

 駅夫がそう応じて、一緒になって笑った。


 やがて、この施設の名前にもなっている、グラバーの邸宅が見えてきた。

 スコットランド出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーが、親子二代に渡り暮らした、現存する日本最古の木造洋風建築と言われている。

 建物の平面は採光と通風を意識した半円形で、日本瓦や漆喰の土壁が用いられている。また、木造菱格子ひしごうしの天井を持つ広いベランダが特徴で、石畳の床に立つ木製の独立円柱、柱間の吊束つりづかを持つアーチ型欄間らんまが開放的な雰囲気を醸し出していると、説明書きにはある。


 グラバーは21歳の若さで、商会代理人の補佐として、1859年日本に来訪した。その後、1862年グラバー商会を設立し、貿易商人として主に茶や生糸を輸出し、西南諸藩の需要に応じて布類や香辛料、鉄材などの他、中古の蒸気船や武器を輸入品として扱い、日本人の英国留学を援助したり、大坂造幣局開設や、ビール会社設立にも尽力、1908年、70歳の時に日本の近代化に貢献をしたとして叙勲を受け、その3年後他界した。


「21歳で外国に来て、一代で財を築くなんてすごいな。

 例え日本がカモだったとしても、その時流に乗った先見の明は流石だし、それに乗れるだけの頭脳があったと言うことだろうからな。

 それに、良い悪いは別にして、日本の近代化に貢献したことは紛れもない事実なんだろうな。」

 羅針が説明書きを読みながら、そんな感想を漏らす。武器商人と言えば、両陣営に武器を売って、疲弊するまで戦わせ、自分だけが一人勝ちすると言うのが定石だと聞いていた羅針は、グラバーが武器を取り扱っていたと言うのを知り、彼の功績は凄くとも、その裏には何かがあったのだろうと思い、そんな感想を漏らした。

「確かにすげぇ人物だったんだな。今まで只の商人だとしか認識してなかったけど、叙勲されているって言うのは、功績を認められたって事だろ。」

 駅夫は羅針とは違って、ひたすら感心していた。


「この叙勲に、何か思惑が絡んでなければな。」

 羅針がぼそりと言う。

「そんなこと言うなよ。すげぇコトしたから叙勲されたんだし、尊敬されてるから、こうやって住居まで保存されているんだろ。」

 駅夫は完全に尊敬のまなこである。

「まあな。この人はそうだったんだろけど、只、歴史って言うのはいつも裏があるんだ。表に見えることだけが真実じゃないからな。俺は事実がどうだったか気になっただけだよ。」

「事実を知りたいって言うのは俺も賛成するけどよ。でもよ、当時の価値観に、現代の価値観を押し填めて、ジャッジするのは何か違う気がするぞ。」

 駅夫が窘める。

「そうだな。彼も歴史を作った一人だからな。彼の行為を糾弾する意味はないからな。」

 羅針は駅夫の言葉に渋々納得する。


 まだ辛うじて太陽は地平線の上にいたが、眼下に広がる長崎の街はすっかり暗くなり、街の明かりが灯っていた。

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