第42話 円環

 部屋の中に天使がいる。透明に輝く翼に実体は無くとも、神々しさと威圧感がある。紛れも無く、嘘偽り無く、正しく天使だ。


 予感はしていたが、鷺宮さんも人じゃなかった。これまで出会ってきた誰よりも、現実味の無い存在が、現実で存在している。 




「ごめんなさい、佐久間さん。憑依から分離するとなると、多少手荒くなってしまうの。怪我は無い?」   




 困惑する僕に、鷺宮さんは手を差し伸べた。僕はその手を取らず、自力で立ち上がった。その事に意味があるかは自分でも分からないが、何故だか手を取ってはいけない気がする。




「そんな怖い顔しないで。危害を加えるつもりは無いから」




「勝手に人の体を乗っ取った癖に……」




「そうしないと、佐久間さんについて行く事が出来なかったから。本来なら、あの病院でしっかり療養してもらって、退院を見送るつもりだったの。でも、事は一刻も争う事態。もう手遅れかもしれない」




「一から説明してもらっていいですか? 僕に憑依した理由と、一刻も争う事態について」




 鷺宮さんは驚いたような表情を浮かべたが、すぐに平静さを取り戻した。おそらく、何一つ疑う素振りを見せない僕に驚いたのだろう。人じゃない存在や不可思議な現象を体験するのは初めてではない。むしろ、それが普通になりつつある。




「佐久間さんに憑依した理由よりも先に、今起きている現象についてを説明するね。佐久間さんは、今の私を簡単に受け入れたよね?」




「まぁ、見慣れてるので。流石に天使は見た事ありませんでしたが」




「それがまず一つ目の異常。私達のような人ならざる人は、あなた達の世界には本来存在しない。なぜなら、世界を保つ円環を崩しかねないから。世界にはかつて、魔法が存在していた。そして魔法は世界の円環を壊した。それもそのはずよ。人が持つには、あまりにも強大な力だったから。壊れた円環を元に戻そうと、我々は介入し、粉々になった円環を円に戻した。魔法が存在しない世界にしたの」




「円環が壊れると、どうなるんですか?」




「混沌、と言えば分かり易いかしら? 人は人の形を捨て、時間は静止し、幸運など存在しない不幸に満ちた世界になる。誰がそんな世界を望むというの?」




「それは、そうですけど……まさか、世界が滅びかけてるなんて言いませんよね?」




「残念ながら、既に崩壊してる」




 鷺宮さんは容赦なく言葉を吐き捨てた。信じたくないし、世界が崩壊している実感が湧かない。確かにおかしな力を持った人や現象は見かけるようになったが、それは所謂オカルトというもの。信じられないような事が、たまたま目の前に現れただけだ。


 少なくとも僕は生き続けられてるし、例え世界が狂っていたとしても、まだ生きていられる。ただ単純に、普通の出会いが無くなるだけだし、それも慣れた。


 


「でも、空から何かが降ってくる訳じゃないし、別にこのままでも―――」




「そうやって先延ばしにして、世界は一度滅んだんですよ?」




「……それを聞いて、僕にどうしろと? 僕は普通の人間です。夢に殺されかけてるような弱い男なんです。何も出来やしない」




「佐久間さんは特異点です。佐久間さんの体に憑依した際に、過去の記憶を拝見しました。すると、あなたを中心として、あなたがキッカケとなって、世界は円環の外へズレていきました」




「ズレる? 壊れていくのではなく?」




「そこなんです。今回、円環は壊れているのではなく、円環の一部分が外れ、その欠片から新たな円環が生まれつつあるのです」




「一度整理しますね。元の世界から切り取られた部分を基に、新しい世界が作られている。それが、ここであり、それを成長させているのが僕?」




「はい」




 どんどん大きな話になってきた。まさか、僕の所為で世界が狂うだなんて。でも、だからといって僕が何かをした訳じゃない。ただ出会い、失って、また出会っただけだ。




「もちろん、佐久間さんの所為ではありません。あくまで佐久間さんはキッカケであり、円環にズレを生じさせてるのは別の存在です。それはきっと、佐久間さんのすぐ傍にいたはずです」




「僕のすぐ傍に……」




 敦子姉さん。彼女の仕業としか考えられない。今までの記憶と、鷺宮さんの言葉を照らし合わせると、ある答えが見えてくる。


 敦子姉さんはいつも、僕が抱えている問題や関係を既に知り尽くしていた様子だった。何をするにしても筒抜けで、最後には僕の前に現れて区切りをつける。出会いと別れの区切りを。


 でも、リリーの時に、敦子姉さんは焦っていた。これ以上は介入出来ないと言っていた。




「一つ質問です。人の道、運命とでも言いましょうか。それは予め決められたものなんですか?」




「はい。それぞれの始まりと終わりが、生命が誕生する前に決められています」




「その道の途中で、進路を変えるって事は?」




「ありえません……いえ、あなたは変え続けてましたね。そこで終わるはずだった道に納得がいかず、無いはずの道を進んでいった」




「もしも、もしもですよ? 僕がこれ以上誰とも出会わず、進むべき道の途中で立ち止まり続けたら、世界は元に戻るんですか?」




「これ以上の変化は起きませんが、それでは元には戻せません。先程も言いましたが、既に元の世界とは別の新しい世界が確立されつつあります」




 僕がこれ以上、縁を作らなければ解決すると思ったが、そう簡単には解決しないか。第一、既に離れたものを元の場所に戻す事なんで不可能だ。




「二つ、解決法が存在します。一つは佐久間さん自身の命を絶つ事。この世界はあなたを中心に成長し続けています。成長の源である佐久間さんを絶てば、この世界も滅び、過去実現したように、我々が修復します」




「佐久間水樹がいない世界……そういう事でしょ?」




「……あまり、オススメはしたくありません。ですが、実例があるこちらが確実な手です」




「もう一つは?」




「元凶である者を絶ち、佐久間さんが元の世界を思い描く。世界が二つ存在する事になりますが、脅威は去ります。ただこちらは、完全に佐久間さん頼みになってしまいますね」




「人柱、になれと?」




「……すみません。現状、佐久間さんが犠牲になる他、解決策が存在しないんです」




 死か、人柱か。どちらも犠牲になるのは僕だけで、最小限の犠牲で済む。だからといって、そのどちらかを選べる程、僕は自分を蔑ろに出来ない。


 僕は外の世界を恐れていた。家の中に引き籠り、自ら生み出した幻に怯え、死んでいるのか生きているのかが分からなかった。そんな僕が、ようやく外の世界に出れて、ようやく普通の人間として生活出来るようになった。全ては生きる為。ただ生きる為に生きてきた。


 僕は物語に出てくるような主人公ではない。

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