第16話 毒
僕は今、玄関に立っている。外に出る事を決めたからには、現時点での自分を把握しておかなければいけない。
扉を開けた先には、外の世界が広がっていた。手を伸ばしたり、見るだけでは心が乱れない。もしかしたら、僕はもう外に出られる? 出ようとしなかっただけで、知らず知らずのうちにトラウマを克服していたのかもしれない。
そうして、僕は外の世界へ一歩踏み出してみた。
「ッ!?」
外の世界に足が触れた瞬間、僕の体は反発する磁石のように家の中へと倒れ込んでいた。何が起きたのか、自分でもよく分からない。分かっている事は、全身の震えと、胸の奥からジワジワと広がる気持ち悪さ。
「む、無理だ……」
扉の先に見える外の世界の眩さが体を蝕み、まるでドラキュラになったようだ。見るだけなら平気だったのに、今は怖くて仕方ない。
僕は逃げ出した。駆け込んだ先は浴室。僕は服を着たままシャワーの冷水を浴び、心を落ち着かせようとする。冷えていく体と頭痛で、感じていた恐怖心が薄れていくと、僕はようやく息をする事が出来た。
シャワーの冷水に混じって流れていく涙を拭う気力が湧かない。このままここに座り込んで、何も感じられなくなりたい。
「水樹君……」
浴室の扉の方を見ると、いつの間にか敦子姉さんが立っていた。可哀想な人を見るような目で、敦子姉さんが僕を見ている。そんな目で見られて悔しいはずなのに、そんな目で見てくれる敦子姉さんにしがみついた。
敦子姉さんは僕を抱きしめてくれた。僕がビショ濡れになっている事など気にもせず、情けなくしがみつく僕を気持ち悪がらず、優しく僕を包み込んでくれた。敦子姉さんの体温が冷えた体に沁み込んでいく。孤独を忘れさせてくれる。
「風邪、ひいちゃうよ。温かい飲み物を淹れるから、着替えてリビングに行きましょう」
それから僕は敦子姉さんに手を引かれ、気付けばリビングのソファに座っていた。いつの間にか服が着替えられていて、手には温かいココアが握られている。頭がボーッとしている所為か、まるで夢の中にいるみたいだ。
ココアを一口飲むと、熱すぎない温かさと、ほのかな甘さが身に染みる。朦朧としていた頭が鮮明になり、僕はようやく冷静さを取り戻した。
「……まさか、ここまでなんて」
外に出る事の難しさは、僕が想像していた以上の悲惨な現状だった。死にたくないと思っているはずなのに、外に出る事と比べれば、容易に死を選べた。体も思考も、自分の意思さえもコントロール出来なかった。
あまりにも無計画過ぎた試みだった事に、今更になって気付いた。もし、敦子姉さんがいなかったら、僕は……いや、これ以上考えるのはやめておこう。せっかく元に戻れたのに、暗い事ばかり考えていては駄目だ。考えるのなら、気付きと改善点を見つけよう。
まず、外の世界を見る事や、手を出す事は出来た。異常が起きたのは、足が外の世界に触れた瞬間。そこから僕はおかしくなった。結果が悲惨でも、そこに気付けたのは収穫だ。
でも、肝心の改善点が思い浮かばない。外の世界に出るなら、足を使う事になる。踏み出す事が出来なければならない。いっその事、逆立ちして外の世界に出るとか……いや、あまりにも非現実的過ぎる。それに、僕は逆立ちが出来ない。
「水樹君。落ち着いた?」
敦子姉さんが僕の隣に座ってくると、僕の太ももを撫でてくる。
「おかげさまで」
「そう。ビックリしたわ。家の扉が開きっぱなしで、浴室に行ってみると、水樹君が服を着たままシャワーを浴びてて。陽があるうちで良かった。夜だったら私、悲鳴を上げてたかも」
「ご迷惑をお掛けしました……外に、出てみようとしたんです」
「どうして?」
「それは……外に、出てみたくなったんですよ」
「だから、どうして外に出ようとしてるの? 外に出て、何をしたかったの?」
言えない。繭さんとの約束を果たす為と言えば、敦子姉さんに色々とバレてしまう。
「……いい加減、前に進みたかったんです。いつまでも、この家に引き籠っていたら、敦子姉さんにも、生活面を援助してくれてる親戚の人達にも悪いと思って」
「……水樹君」
手に持っていたココアをテーブルに置かされると、敦子姉さんの胸に僕の顔が抱き寄せられた。柔らかい感触と心臓の鼓動。母親に抱かれて眠る赤子のように、僕は安心しきっていた。
「焦らなくていいの。誰も水樹君を急かさないし、迷惑だなんて思ってない。例え誰かがそう思っていたとしても、私だけはずっと水樹君の傍にいるから。だから、一人で乗り越えようとしないで。私を頼って」
「……なんだか、不思議な気分です。子供扱いされて嫌なのに、ずっとこのままでいたいような」
「あら。それじゃあ、今日はずっとこうしてる? 私としては、今日も明日も、この先ずっとこのままでいたいけど」
「それは……やめておきます。なんだか、人を駄目にする枕みたいですね」
「胸が大きくて良かった。実はね、ずっとコンプレックスだったの。胸が大きいだけで視線を感じるし、重くて辛いし、良い事なんて一つも無かった。水樹君に喜んでもらえたなら、この身体で良かったって、心から思える」
「胸の大きさの話はしてません。敦子姉さんの心臓の音が、凄く落ち着くんです」
いつまでも敦子姉さんに包まれていたかったが、そうなってしまえば、もう二度と外に出る事が出来なくなる気がする。この心地よさから離れるのを嫌がる気持ちを振り切り、僕は敦子姉さんから離れた。敦子姉さんは残念そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、キッチンへと歩いていった。
「そろそろお昼になるし、ご飯作るわね。何が食べたい?」
「……スッと胃に入る食べ物がいいです」
「う~ん、相変わらず難しいお題ね。分かった。じゃあちょっと待っててね。スッと胃に入る……?」
敦子姉さんは頭の上にハテナマークが浮かんでいるような表情をしながら、冷蔵庫を開いた。それでも、必ず納得させてくれる料理を作ってくれる。そう確信出来る程までに、僕は敦子姉さんに絶大な信頼を置いている。
「……そうだ。敦子姉さん、今日は仕事だったんじゃないの?」
「ん? 今日はお仕事は休みだよ」
そう言いながら、敦子姉さんは昼食の準備をしていく。携帯電話を見ると、今日は平日。敦子姉さんが着ている服は、ジャケットが無いから分かりづらいが、仕事に出かける時に着ている服装だ。
敦子姉さんは、嘘をついている。
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