第7話 節操無し

 敦子姉さんの太ももの感触を感じる。柔らかすぎず、程よく筋肉がついていて健康的。妙にフィット感があって眠くなってしまう。左手で常に僕の頭を撫で、右手に持つ耳かき棒で僕の右耳を掃除してくれるおかげで、気持ちも良い。    




「ちゃんと定期的に耳掃除してるみたいだね。ほとんどゴミが無いよ。痛くなってない?」




「うん。むしろ、気持ちが良いよ」




「それは良かった。あんまりやり過ぎは駄目だし、こんなものかな……どう? よく聞こえる?」




 いつもより近くで聞こえる敦子姉さんの声に体がゾクリしてしまう。視線を敦子姉さんに向けると、敦子姉さんは少女のように悪戯な笑顔を浮かべて僕を見つめていた。不思議な人だ。大人な女性らしい面や、悪戯好きな少女な面を自在に変化して魅せてくれる。


 敦子姉さんの太ももの感触を後頭部に感じながら、見つめてくる敦子姉さんを見つめ返した。悪戯好きな少女の面は崩れ、吸い込まれるような妖しい表情に変わった。僕の鼓動は早くなる。目を背けようにも、僕の体は石になったように自由が効かない。


 僕の左胸に、敦子姉さんの右手が触れてくる。右手から伝わってくる敦子姉さんの体温が、皮と肉を貫いて心臓に伝わってくる。


 


「鼓動、伝わってるよ」




「……敦子姉さんの体温も、伝わってるよ」




「どうしてこんなにドキドキしてるのかな?」




「どうしてこんなに温かいの……?」




「……どうしてだと思う?」




 言葉が紡がれる度に、敦子姉さんの顔が近付いてくる。敦子姉さんの吐息が僕の唇に触れ、僕の左胸に置かれている敦子姉さんの右手に力が入った。


 


「……無理しなくていいよ」




 唇が重なる直前、僕は呟いた。世界の時間が止まったかのように、けれど時計の秒針は音を立てて時間を進めながら、静寂が訪れる。


 いつまで経っても動かない敦子姉さんにしびれを切らし、僕は押しのけるように敦子姉さんの顔を遠ざけ、立ち上がった。敦子姉さんを見ないようにしてキッチンに行き、冷蔵庫に入れていた麦茶を二つのコップに注いでいく。注ぎ終わった所で氷を入れ忘れた事に気付き、適当に取った氷を雑にコップに入れた。当然コップの中の麦茶は波を上げ、テーブルの上に少しだけ零れてしまう。


 敦子姉さんは、一体何をするつもりだったんだろう? 分かっているはずなのに、認めたくなくて分からないフリをしてしまう。敦子姉さんは大人だ。色々な事を経験し、子供には理解出来ない事を理解し、夢見てばかりの子供とは違って現実を見ている。


 だから、僕に……血が繋がっていない他人の僕に、キスなんてしない。きっと僕をからかっただけなんだ。


 でも、あの直前で敦子姉さんの右手の力が強くなった。僅かに震えていたのが嫌というほど伝わってきていた。緊張していたのが、分かってしまった。




「水樹君? どうしたの?」


 


 隣を見ると、いつの間にか敦子姉さんが立っていて、いつものような余裕を持った大人の女性だった。僕を心配そうに見つめる表情には何も隠されておらず、まるでさっきまでの事を憶えていないかのようだった。




「あちゃ、零しちゃったの?」




「……氷を入れ忘れたのに気付いて」




 テーブルに零した麦茶を拭き取り、コップを一つ敦子姉さんに渡した。コップを受け取った敦子姉さんは笑顔を浮かべながら、麦茶を一口飲み込んだ。


 色々聞きたい事はあるけど、忘れる事にしよう。そう思い、喉の奥に詰まらせた言葉を麦茶と共に飲み込んだ。 




「もうお昼だね。水樹君は何食べたい?」




「……冷たい食べ物」




「またそうやって私の事を困らせる。じゃあ氷でも口に含んでおく?」




「せめてカキ氷がいいな……素麺、食べたい」




「あらビックリ! たまたま持ってきた食材に素麺が入ってました! 偶然だね!」




 いつの間にか敦子姉さんは素麺の袋を手に持っていた。まるでマジシャンだ。




「素麺って良いよねー。茹でた麺をツユにつけるだけなんだから。水樹君は素麺に何か入れる?」




「何か入れるの?」




「人によって違うけど、私はワサビを入れるよ。ワサビでスッキリするのが癖になるんだよねー。じゃあテーブルに座って少し待ってて。すぐに作って持っていくから」




 敦子姉さんは腕まくりをして鍋に水を入れていく。僕は言われた通りにテーブルに座って待とうと、キッチンから離れた。


 テーブルの席に座ろうとした矢先、玄関のチャイムが鳴った。玄関に赴き、扉を開けると、玄関先には花咲さんが俯きながら立っていた。




「花咲さん?」




「佐久間君……ごめんなさい!」




 突然の謝罪に、訳も分からず首を傾げてしまう。謝罪の理由を聞こうと口を開いたが、それよりも先に顔を上げた花咲さんが謝罪の理由を教えてくれた。




「この前、花火大会のお誘いをした時の事。佐久間君が嫌がっていたのに、それでも誘い続けちゃって……私、自分勝手でした。だから、今日はきちんと謝ろうと思って」




「うん、そっか」




「……えっと、それだけですか?」




「うん。こっちこそごめん。もう忘れてたよ」




「……そう、ですか……それじゃあ、今日はこれで」




 そう言って、花咲さんは深々と頭を下げてから帰ろうと振り返った。




「え?」




 見送ろうと思っていたら、花咲さんが驚いた様子で振り返ってきた。自分でも気付かずに、僕は花咲さんの腕を掴んで引き留めていた。




「……素麺、食べる?」




「え? 素麺、ですか?」




「うん。素麺嫌い?」




「いえ、嫌いではありませんが……素麺?」




「じゃあ、家に入っていいよ」




「……え? 入っていいんですか? 今まで入れてくれなかったのに……」




「別にいいでしょ。もう見知った仲だし」




「ええ……まぁ、それでは。お邪魔します」




「うん。お邪魔して」




 何か納得のいかない表情を浮かべた花咲さんをリビングへと連れていく。リビングに来ると、テーブルには既に昼食の準備がされており、素麺が盛られた大皿の横にツユを入れる器が重ねられている。




「水樹君、誰が来た……の……」




「お、お邪魔……します……」




 敦子姉さんと花咲さんが対面した瞬間、リビングの空気が一変した。テレビでやっていたドラマの中で、似たような空気になったシーンがあったっけ。確か、主人公の恋人と浮気相手が鉢合わせしてしまうシーンだった気がする。


 でも違うか。僕はドラマの主人公のような節操無しじゃないし。きっと暑い夏の所為だ。

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