第6話 依存
物や鏡に映る姿を長く見続けていると、不思議な事が起こる。動かしていない物が徐々にこちらへ近付いてきたり、鏡に映る自分の顔が黒く焦げていく。超能力や超常現象ではない。これら全ては錯覚。瞬きをすれば元に戻ってしまう程、脆い錯覚だ。
もし、人が瞬きを忘れてしまったら、世界の見え方はどうなるのだろうか? 想像はつかないが、目薬の売り上げは飛躍しそうだ。
「あ、崩れた」
僕はそう言って、積み上げていたジェンガを崩した。こんな風に事前に崩してしまえば、意図せず崩れた時に味わう悲しみを負わなくて済む。
ジェンガは良い。順調に積み重ねていけば嬉しくなり、更に積み上げようと欲を出し、音を立てて崩れ落ちていく。心の中がグチャグチャになって、虚無感やトラウマを忘れさせてくれる。
崩したジェンガを片付けていると、玄関のチャイムが鳴った。携帯を確認すると、敦子姉さんからのメールが一件届いている。
【起きてますか? 誰かが訪ねてきているようだよ!】
時刻は9時を少し過ぎた頃。十中八九、玄関先にいるのは敦子姉さんだ。でも今の時間なら、敦子姉さんは仕事中のはず。
玄関に赴き、扉を開けると、普段見慣れているスーツ姿ではなく、白いシャツとジーンズ姿の敦子姉さんが立っていた。何故か手には大荷物を持っている。
「あ、起きてた」
「仕事は?」
「休み。だから、遊びに来たの」
「え? 来るって言ってたっけ?」
「今送ったでしょ」
「直前過ぎる……」
「経験経験! 大人になったら、色んな事を直前に言い渡される事ばかりなんだから!」
僕は少し横に動き、敦子姉さんを家に入れた。敦子姉さんは持ってきた食材を冷蔵庫に入れていき、残ったカバンはリビングの隅に置いた。
「それで、何をしに来たんですか?」
「言ったでしょ。遊びに来たって」
「敦子姉さんって友達がいないの?」
「いるいる! まぁ、みーんな結婚しちゃった所為で、中々遊べないけどね」
そうか、敦子姉さんみたいな大人は、みんな結婚するようになるのか。敦子姉さんは結婚しないのかな? 敦子姉さんだったら、すぐに相手が見つかると思うけど……でも、敦子姉さんが結婚したら、もう僕に晩ご飯を作りに来てくれなくなっちゃうな。なんだか寂しい。
まぁ、そんな事は後回しにして、敦子姉さんが持ってきた荷物の量を見るに、長時間ここに滞在する気なのか? 別に嫌じゃないけど、敦子姉さんがいたら新しく買ったジェンガで遊べない。
「これって、ジェンガ? 懐かしい~。昔、学校の友達でやったなー」
「学校って、いつの?」
「中学? 高校? もしかしたら、どっちもかも。修学旅行にね、誰かの部屋に集まって、夜遅くまで遊んでたんだ……なんだか久しぶりに遊びたくなっちゃった。水樹君付き合って」
僕の返事を待たず、敦子姉さんは楽な姿勢で座りながら、テーブルの上にジェンガをセットしていく。一緒にやる事を躊躇っていると、敦子姉さんは頬杖をついて微笑みながら、僕の事を持っていた。この人は僕が一緒にやってくれる事を信じて疑っていない。こういう所、敦子姉さんの長所で、同時に短所でもある。
僕は敦子姉さんの向かい側に座り、ジェンガを始めた。
「よくジェンガで遊んでるの?」
「うん」
「一人でやってて、寂しくならない?」
「やらないと、寂しいままだから」
「……そっか」
お互い順調に積み重ねていく。普段なら崩すタイミングだけど、上手い具合に敦子姉さんが崩さないようにしてくる。崩したくても崩せず、段々と不安定になっていく様に不安になってきた。最初は迷わず手を動かしてきたが、今はどこから取れば崩さずに済むか迷ってしまい、中々手を出し辛い。
ふと、敦子姉さんに目を向けると、敦子姉さんは相も変わらず頬杖をつきながら微笑んで僕を見ていた。
「……ふと思ったけど、ジェンガって面白いよね。崩れないように積み重ねていくだけなのに、こんなにハラハラするもの」
「全然焦ってるように見えないけど……」
「自分よりも怖がる人がいれば、怖いものもヘッチャラになるみたいなものよ。私より、水樹君の方が焦ってる。真剣な表情で考え込んでて、可愛い」
「いつもなら、もう崩してます。でもそれが出来なくて……イライラしてます」
「崩す事が出来なくて? どうして崩すの?」
「ジェンガを崩したら、心の中がグチャグチャになるんです。正気を保つには、心をグチャグチャにしなきゃ駄目なんです……あ」
外す所までは上手くいったが、積み重ねる時に僅かに力が入ってしまった。崩れる、と思うよりも先に、ジェンガは音を立てて崩れ落ちていった。
テーブル上に散らばったジェンガのブロックを見た僕の心はグチャグチャにはならなかった。代わりに、胸の中に石が詰め込まれたような重さに襲われる。その重みに抗えず、僕はテーブルに倒れ込んだ。
呆然と眼前にあるジェンガのブロックを見ていると、敦子姉さんが僕の髪に指を差し込んできた。敦子姉さんの細い指は僕の髪を撫でていき、耳の輪郭をなぞるようにして、頬で止まった。
「水樹君。いつからこんな遊びをするようになったの?」
「……分かんない……最近な気もするし、ずっと昔だった気もする」
「もうやめなさい。水樹君がやってる事は、自分で自分を傷付けているのと同じ事よ。心が乱れて正気が保てるなんて事はない。正気か、狂気か。この違いを理解し続けられるように、境界線を大事にして」
「……もう、戻れないですよ……正気だろうが狂気だろうが……もう、元の生活には戻れないんです……」
「そうね……でも、新しく始める事は出来るわ。過去を乗り越えて、新しい人生を始める事は出来る。安心して。水樹君が新しい人生を始められるように、私が傍にいるから」
敦子姉さんは僕に優しく話しかけながら、僕の肩を撫で続けてくれた。僕はその手を振り払う事も、敦子姉さんに言い返す事も出来ない。
ただジッと、敦子姉さんが撫でてくれる心地よさに浸った。その心地よさは、幼少期にお母さんが撫でてくれた時とは違う安心感があった。
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