第2話 独りぼっち
僕の部屋には首を吊るロープが掛けられている。別に自殺をする為ではなく、あくまで観賞用だ。僕はいつものように椅子をロープの真下に置き、いつものように壁にもたれ座って椅子とロープを眺める。
しばらく見続けていると、椅子の上にボクが立っているのが見えてきた。僕を見るボクは首にロープの輪っかを通し、足場にしていた椅子を蹴飛ばした。足場を失ったボクはロープに首を吊るされ、苦渋の表情を浮かべながら涙を流す。
苦しみもがくボクの表情は、今の僕よりもよっぽど生き生きとしていた。まったく皮肉なものだ。でも、だからといって羨ましいとは思わない。
「僕は死にたくないんだ。だから、君が僕の代わりに生き生きと死んでいってよ」
次第にボクの身振り手振りに力が無くなっていくと、最期はロープに揺られながら動かなくなってしまった。
両親が亡くなってしばらくして、孤独に耐えきれなくなった僕は、家の何処かでボクを見かけるようになった。幻であるボクは、まるで過去の記憶を再生するかのように、以前までの僕の日常生活の一部を真似している。ハマっていた音楽を口ずさみながら歩いたり、好きなテレビ番組をソファに座って見ていたり、良い点を取れたテスト用紙を嬉々として両親に見せに駆ける姿。
初めは見えるだけだったが、次第に幻の解像度は上がっていき、当時の声まで出すようになった。今では、ボクの姿や声だけでなく、両親の声まで聞こえるようになった。
このままでは、幻のボクの方が幸せに生きているようになってしまう。本物であるはずの僕が、幻にすり替わってしまう。それがたまらなく恐ろしく、そして許せなかった。
だから、僕はボクを殺す事にした。部屋にロープを吊り下げ、陽が沈むまでボクが首を吊るのを想像した。
ようやくボクを思い通りに出来るようになった頃、僕は明確に歪み始めた。生きている僕が、死んでしまったボクを眺める事に、快楽に近い高揚感を覚えるようになった。
時刻は16時を過ぎた。そろそろ夕飯を取る時間だ。温めた弁当をテーブルに置き、口の中に放り込む。正直お腹は空いていない。
ここ最近、食欲が無くなっていた。常に満腹の感覚がして、でも体重は減るばかり。一口頬張る度に嫌気がさし、飲み込む事を拒絶する体。口の中に溜めた食べ物を水で無理矢理腹の中に流し込む。
「……気持ち悪い」
空になった弁当をゴミ箱に捨て、トイレで食べた物を吐き出す。一通り吐き出すと、透き通るような爽快感が頭の中で広がった。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いてうがいを済ませた頃、玄関のチャイムが鳴った。僕は鏡の前で笑顔を作り、玄関の扉を開けた。
訪ねてきたのは敦子姉さんだった。仕事終わりなのかスーツ姿のままで、手には食材が詰まったビニール袋を持っている。
「水樹君お待たせ! 今から晩ご飯作るから!」
「晩ご飯?……あ」
今朝の敦子姉さんが晩ご飯を作ってくれる約束。僕はすっかり忘れていた。
「どうしたの水樹君? 今日はカレーにしようと思ってるんだ! 水樹君好きだったもんね、カレー」
「カレー? 好き? えっと、うん。凄く、嬉しいよ。敦子姉さん」
僕ってカレーが好きだったんだ。全然憶えてないや。というより、敦子姉さんは僕がカレーが好きな事をどうやって知ったんだろう? お母さんが話したのかな?
疑問を残しつつも、せっかくの情けを無下にするわけにもいかず、僕は敦子姉さんを家に上げた。敦子姉さんはキッチンに食材が入った袋を下ろすと、ジャケットを脱いで早速調理を始めた。
「水樹君。今日は何をして過ごしていたの?」
「空想の友達と遊んでた」
「私は心理学者じゃないけど、その遊びはやめておいた方が良いと思うよ? 現実と幻の見分けがつかなくなっちゃうから」
「敦子姉さんは何をしていたの?」
「お仕事をしてたよ。空想じゃない現実の人間と一緒にね。ハァ、あの人達が空想であってほしいわ。チラチラと私を見てきて、そのくせ私が振り向くと視線を背ける。だるまさんが転んだじゃないんだから」
「敦子姉さんが綺麗だから皆見るんだよ」
「あら、嬉しい。あの人達も水樹君を見習ってほしいものね」
「さっきから僕は敦子姉さんばかり見てるけど、敦子姉さんは嫌じゃないの?」
「水樹君は特別よ。水樹君になら、ずっと見ててもいいし、見ていてほしいと思ってる。格好悪い所は見ないでほしいけれどね」
敦子姉さんはそう言ってるが、僕が敦子姉さんの格好悪い所を見る事は無い。そこまで一緒にいるわけでもないし、そこまで親密な関係じゃないからだ。今日だって料理を作ってくれるのも、独りになってしまった僕に情けを掛ける為であって、好意からじゃない。
順調に調理は進んでいき、カレールーが溶けるまで鍋をかき混ぜていた頃、敦子姉さんは唐突に口を開いた。
「一緒に住まない?」
「え?」
「私と一緒に住まない? 元々私は一人暮らしだから、一人増えても何ともない。私の家が嫌なら、逆に私が引っ越してきてもいいよ。家に物が少ないから、荷物を少し移すだけで引っ越せるんだ。それに、こうやって誰かと一緒にいる時間って、私も少ないんだ。大人になって色々成長出来ても、寂しがり屋な所だけは成長出来ていない。だから、私と一緒に住まない?」
「……僕は、寂しくないよ」
「そう。なら、これからもこうして会いに来る。それで、たまにご飯を作って、一緒に食べてあげる」
「……そのくらいなら、いいよ」
「ウフフ。ありがと、水樹君。私の方が年上なのに、なんだか妹みたいだね」
「敦子姉さんにはお姉ちゃんでいてほしいよ」
「大人は幼少期に戻りたくなるものなのよ。カレー出来たから、テーブルに座って。持っていくから」
そうして、僕らはカレーライスを食べた。満腹感の所為で味は分からなかったけど、不思議と吐き出す事は無かった。
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