第五章 平和の誓い


 広島の息吹は、時の流れに抗いながらも、その輝きを決して失わない。


 祐介の死という深い悲しみを背負いながらも、僕の政治への道は、彼の記憶を力に変える。昨年の選挙での勝利という形で、その正しさを世に示した。


 瀬戸内海の穏やかな波と、秋の訪れと共に色づく山々は、訪れる者の心に穏やかな平和をもたらす。嚴島神社の鳥居が朝日に照らされる姿は、永遠の美しさを象徴し、歴史と自然が織り成す調和は、訪れる者の心に永遠の印象を刻む。


 政治家としての道は険しく、時には孤独を感じることもある。しかし、広島のように、変わらぬ価値を守り続けることができれば、それは何物にも代えがたい尊さを持つと信じている。


 三年の時を経て再びこの地を訪れるのは、観光のためではない。国民から託された使命を背負い、総理大臣として新たな時代へ日本を導く道を模索するためだ。広島の静謐な力は、歴史の深淵から首都の再生という希望の光を見出す手助けとなる。


 戦争の傷跡が色濃く残る広島で、鎮魂の鐘の音は平和への切実な願いを伝え、その響きは僕の心にも深く鳴り渡る。その響きは、僕たちが決して忘れてはならない貴重な教訓を思い起こさせてくれる。


 広島の訪問を経て、九州の熊本へと旅は続く。忙しさが増す日々の中で、僕の座右の銘「一寸の光陰軽んずべからず」を胸に、一瞬一瞬を大切に過ごすことの重要性を再認識していく。


 台湾との協力のもと、次世代半導体の開発を推進し、最先端の光技術を駆使して、より豊かな社会を築くためのIOWN構想を実現へと導く。遠隔地でもリアルタイムでAI分析を可能にする技術の開発拠点を視察し、その成果を確かめた後、東京へと戻る計画だ。


「西園寺さん、探しましたよ」


 黎明の静けさが広島の街を包む中、想いもよらぬ声が眠っているような沈黙を破った。彼女は、総理や先生といった堅苦しい肩書きを避け、「西園寺さん」という名で親しみを込めて呼んでくれたのだ。


 振り返ると、総理になった日に記憶に残る質問を投げかけてきた毎朝新聞の記者がそこにいた。総理と記者との間に引かれた一線を守りつつも、彼女の言葉は久しく感じていなかった安堵感と親近感を僕にもたらした。


「望園さんか。こんな朝早くからどうかしたの?」


 そう問い返すと、彼女はまるで僕の心に一歩踏み入れたかのように答えた。


「私のことを、まだ覚えていてくれたのですか? 政治記者からしばらく異動になったんです。でも、まだ聞きたいことがたくさんあって……」


「ああ、覚えているよ。顔を見れなかったのは寂しかったな」


 不思議なことに、望園という苗字だけでなく、彼女の名前も舞子として、僕の記憶の彼方にしっかりと刻まれていた。その名前は、遠い思い出の中で、優しく光り輝いているかのようだった。


 彼女は、先月まで社会部に所属し、警察や検察、裁判所を担当していたという。事件や裁判の記事を書き、祐介の命を奪った犯人の裁判を傍聴した経験を持つ彼女は、つらい気持ちを隠さずに話してくれた。


「あの犯人、個人的に許せない。求刑が死刑じゃないなんて」


 人の命を奪った犯人に対する怒りは、心の底から湧き上がるものだ。僕も怒りに震えて全く同感だった。十年かそこらの懲役刑なんて到底受け入れられないと、彼女は記者の立場を離れてひとりの人間として静かに吐露した。僕はこの世にいない祐介の笑顔を思い出すと、胸が締め付けられた。



 望園記者は話題を変えてきた。出版界の知り合いから耳にしたという「日輪の光陰プラン」の本の話を切り出した。彼女の瞳は、真実を追い求める熱意に燃えていた。きっと、近ごろ珍しい優秀な新聞記者なのだろう。


「東京の一極集中という現状を打破するための革新的な改革、具体的にはどのような計画をお持ちですか? ここだけの話、オフレコでお聞かせいただけないでしょうか。ご承諾を得るまでは、決して外には漏らしません」


 彼女の執拗な問いかけに、僕は一瞬たじろぎ、少しだけ驚いた。


 望園さんの関心は、新聞記者としてではなく、舞子というひとりの市民としてのものだった。彼女の言葉には、広島への深い愛情と、未来への希望が込められていた。

 

「ここは私の生まれ故郷なんです。今日も実家から来ました」


 朝焼けに染まる空のもと、舞子の黒髪は風になびき、その瞳は広島の海のように澄み渡っていた。彼女の存在は、この地に深く根差した強さと、都会の洗練さを併せ持っているようだった。


 彼女は僕よりも一世代若く、その姿には、亡き恋人の面影がかすかに映じている。独身である僕には、衆議院議員になるまでの長い間、陰で支えてくれた内縁の妻がいた。彼女が亡くなってからも、僕は長い間、悔恨の念に苛まれていた。


「舞子さん、どうやって僕の足取りを探ったのですか?」


 僕が初めて望園記者を舞子と呼んだとき、彼女は優しい微笑みを浮かべて答えた。


「記者の掟として、情報源は決して明かせません。ですが、西園寺さんのためなら、ヒントくらいはお教えしましょう。あなたの知人の中に、私の友人がいるのです。どうか、犯人探しはなさらないでくださいね」


「ああ、もちろんだ」


 僕はすぐに苦笑いしてうなずいた。


 舞子は、新聞記者として広範な情報網を有しているようだ。彼女を特別扱いするつもりはさらさらないが、舞子ならば重要な情報を軽々しく漏らすことはないと確信している。



 朝焼けが広島の街を柔らかな光で包み込む中、僕たちは原爆ドームのある資料館へと歩を進めた。そこは、平和への願いと歴史の重みが静かに共鳴する聖地だ。その地は、僕の心に描く「日輪の光陰」プランにとって、不可欠なピースとなっている。


 資料館内は、原子爆弾によって命を奪われた魂の叫びで満ちており、僕たちは言葉を交わさずに、それぞれの展示に心を寄せた。舞子は、展示品のひとつひとつに深い思いを馳せ、時折、その悲しみをため息として漏らしていた。


「西園寺さん、ここに来るたびにいつも思います。平和は本当に脆く、でもかけがえのないものですよね」


 彼女は重苦しい声で震えながら言った。その瞳には、尽きない悲しみと強い決意が共存しているように見えた。


「そうだね、望園さん。平和は毎日の努力で守られるものです。だからこそ、僕たちは未来に向けて、正しい選択をしなければなりません」


 僕は答えた。その言葉を発すると同時に、心の中で固く誓った。「どんな事情があろうとも、日本は二度と戦争を起こしてはならない」。総理としての自分に、揺るぎない決意を新たにしていた。



 僕たちは厳かな原爆ドームを背に立ちどまり、暫し周囲の静けさに耳を傾けた。舞子はゆっくりと手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げていた。その姿は、この地に根差した強さと、平和への切なる願いを体現しているようだった。


「西園寺さん、私たちにできることは何だと思いますか?」


「僕たちにできることは、過去を忘れず未来に生かすことだ。そして、一人ひとりが平和のために行動すること。それが、僕が目指す政策の基盤にあるんだ」


 望園記者は、僕の言葉にうなずきながら、再び前を向いた。彼女の表情には、新たな決意が浮かんでいた。

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