第232話
*オランジェ邸
オランジェ邸の側道を、男が歩いていた。
ギーガンは、ケベックを追い返したあと、すぐにギルド支部を出ていた。
彼は格子越しの庭に目を向ける。昼間なのに、家人は一人も見当たらない。すでに空き家の風情がある。
状況を知ってはいたが、ギーガンはやるせない気持ちになった。
門を開け、勝手に中に入って行く。呼び止める者はいない。
ドアにも鍵はかかってなかった。ギーガンも気にせず進み、ホールで声を上げる。
「オランジェさーん」
居室にはいろいろな物が箱詰め、梱包され積んであった。
ギーガンとオランジェは適当な木箱にかけている。
「――という訳だ。もう、何も言ってはこないだろう」
ギーガンは己の手柄を自慢するでなく、どちらかというと沈んだ顔つきで言った。
「そうか、ありがとう」
オランジェは、割と朗らかに礼を言った。ギーガンはそれを少し不審に思ったが、ここに出向いた要件が先だと考えた。
「これは返すぞ」
差し出された封筒からは権利証などが出て来た。オランジェは顔色を曇らせる。
「これは、正当な報酬だ。君たちは…」
「俺たちは、娘を捉えるのに協力しただけ…いや、しようとしただけだ」
「君は、私が、どれだけ危険なことに巻き込もうとしていたか…」
「普段はがめつい冒険者も、誰一人受け取る気はない。協力はしようとしたが、何もせず見てただけだからな」
「しかし…あなた方は…」
「最初の報酬は頂いておく。それでこの話は終いだ。俺達にもプライドがある」
オランジェはやつれ、疲れた顔をしていたが生気を取り戻したように姿勢を正して、深々と頭を下げた。
「…ありがとう」
お互い、これ以上語る事は出来ないのだ。盗聴が終わっているとは言い切れない。ギーガンは満足そうに頷き、膝を打った。
「あの…執事。ウエハスはどうした?」
ギーガンはそれを、適当な話題にしたわけではない、聞きたかったのだ。
「ああ、彼は行ったはずだよ」
「彼も…仕方なかったんだろうぜ」
「ああ、私も責めはしない。約束通り、退職金代わりの家も譲渡したままだ」
天井辺りの小窓から日が射し、上空の埃がキラキラ舞っている。ギーガンはなんとなくそれを見ていた。
オランジェもそちらを見ていたが、彼が実際に何を見ているのかギーガンにはわからなかった。
お互いに意味のある沈黙を過ごし、暫く経ってからギーガンは尋ねた。
「行くのか?」
「ああ。状況は悪くないが、ここにはもういられない。
違う町でもう一度、一人でゼロから始めてみるさ」
ギーガンは、オランジェの頭髪を見る。燃やされて短くなったままだ。眼鏡は無事だったようだ。ガラスが解けるほどの高熱ではなかった。
「あの時、よくポーションを持っていたな。正に備えあればだな」
ぼんやりと、宙を見ていたオランジェが、彼に視線を合わせて来た。少し辺りを覗うようにしてから、ギーガンに顔を寄せる。
「ポーションは、あの男が差し込んで行ったんだ。すぐ使えと言われた」
極めて小さな声だった。ギーガンにもはっきり聞こえたわけじゃない。そう言ったのではないかと、補完したものだ。
「それじゃ…あの娘は…」
無事なのか。非情な悪魔に連れ去られたわけではないのか?
楽しく暮らせるのか?
ギーガンは、そう問いたかったがやめておいた。
会話の代わりの沈黙が続いた。
静かな屋内には、窓の外を走る子供たちの朗らかな声が遠く聞こえていた。
「…神を信じろって、どういう意味だろう?」
オランジェは唐突な質問をした。ギーガンは片目を眇めてあっさり答える。
「そりゃ神に祈れって事だろう。助けてください。救ってください。願えってことだ。そんな事もわからないのか?」
「…ウエハスは、そんな信心深い奴じゃないんだが…」
「誰だって、いざとなったら神頼みするものだろう」
「………」
そこでオランジェは急に立ち上がった。血相変えて部屋を飛び出した。
ギーガンは追いかける。
彼は、オランジェは、廊下にあった不用品を入れた箱をひっくり返していた。
「一体、どうした?」
オランジェは箱から、焼け焦げた上着を引きずり出した。昨夜、彼が身に着けていた物だった。
その、ポケットから棒状の何かを取り出した。
それは少し焦げて、中身が見えていた。
焦げた御守り風の包み部分を破くと、それは魔法のスクロールだった。
オランジェには、ここまでしかわからない。文字なのか模様なのか、読めないのでギーガンに手渡す。
ギーガンは恭しく両手で受け取った。魔法のスクロールはとても高価だ。しかも渡されたものはドロップ物だった。
上級魔法使いが作ったものではない。ダンジョンや遺跡で時々見つけられる貴重なものだ。かつて冒険者だったギーガンにはその文字が読めた。
「これは…消失だ」
「消失?」
「認識阻害の魔法の中で最上級の魔法…。ロストマジックだ。
暗闇は夜しか使えない、闇に紛れ姿を隠す魔法。迷彩は昼でも使える。周囲に紛れる事で姿を隠す。どちらも音遮断、気配遮断が付帯するが、どちらも完全に姿を隠せるわけではない。紛れるだけだ。
だが、消失は文字通り消えてなくなるという。音も気配もないだろう」
「くっくっく、くう…」
オランジェがいきなり笑いだした。ギーガンはそう思ったのだが、実際の彼は体を揺さぶり泣いていた。
ポタリと音を立てて落ちた涙の粒が、埃っぽい床に一つ二つと、はっきりとした跡を残していく。
「わから…ないだろ、馬鹿野郎。神を信じろじゃ…そんなに賢くねーよ」
オランジェは思わず、昔の口調が口から出てしまっていた。彼はこの時、ウエハスの行動の全てを理解したのだ。
『あれは大分離れているから、見つかっていない。けど……今は、使えない。誰にも見られずに、あそこに近づくのは不可能だ』
…今は、使えない。誰にも見られずには近づけない…彼はそういったじゃないか。
全て語っているじゃないか。
多分、手にして強く祈れば発動する類のアイテムだったのだろう。自分達が消え去れば、その仕掛けがわかれば、きっとその意味がわかった。
これを使い、秘密の通路を行けばよかった。娘と二人で行けば良かった。私たちは海に出られた。道は確保されていた。
彼の、諦めろというのは、警吏に対するただのポーズだったんだ。
自分が彼を信じきれていれば…。オランジェは一瞬、悔しそうな顔をした。
だが親友を取り返した喜びの方が、遥かに勝っていようだ。
深く息を吐いて、オランジェはギーガンを見た。
彼の顔つきは、先程とはまるで変わっていた。
「それは、高価な物なのか?」
「勿論。家が二軒買えるほどだし、めったやたらに手に入るアイテムじゃない」
オランジェは、それを受け取ると踵を返した。
「ウエハスを探しに行く。俺はもう一度やって見せる。彼には豪勢な老後を保証してやるんだ!一族どころか遠縁も犬も馬も並ばせてやる!」
どかどかと床を鳴らし、オランジェは走り去った。それはまるで若い男が駆けだして行くようだった。
ギーガンは埃が舞った室内に一人残り、ポケットの煙草を探した。
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