第231話



 少し近づいて、彼が探し人だと確認をとった。ライムが、間違いないと船からから身を乗り出す。手を振って声をかけそうな勢いを止める。


 船を先の森に降ろし、俺たちは用意して待ち構えた。


 遠くからゆっくりと老人が歩んで来る。

 随分な上空からでも彼が老人だとわかった。彼の歩き方だ。人生に疲れ切っている。そんな感じだったからだ。



 今なお、彼は人生に疲れ切ったように歩く。


 彼は周りを警戒することもなく、風景を見る事もなく、ただ足元だけを見て歩き進んでいた。生ける屍のような姿だった。


 俺とアリアーデの近くまで来ても、前を見ていない彼は気づかなかった。

 宿題を忘れた小学生が、学校に行きたくないけど仕方なく向かっているみたいだった。



「ウエハスさん!」


 ライムが低木の茂みから飛び出してしまった。


 情報が洩れる可能性があるから、彼女には彼が味方と確信できるまで隠れているよう言っておいたのだが。やっぱ子供だ。

 あまりに落ち込んでいる、彼の様子が心配になったのかもしれないが…。



 死んだように歩いていた老人に、血が巡るまで時間がかかった。固まり切ったかのような顔が変化する。落ちくぼんだ目がゆっくり見開かれる。



「ライム……お嬢さん。どうして…ここに?」


 そこまで言って、これが現実と認識したのだろう。彼は俊敏さを、突然取り戻した。素早く無駄のない動きで辺りを覗った。



 周囲は木立だけ。町からはまだ四キロは離れている。人目は無かった。

 俺は、彼のその動作を見て戦えるタイプと認識した。まだ現役だ。


 ウエハスは息をつき、改めてライムを視界に収める。一瞬だけ笑顔が浮かぶが、何か思い出したように肩を落とす。


「いけません…見ていたでしょう。私は…お二人を裏切ったんです。

 ライムに…お嬢さんに合わせる顔はない」



 ハグする準備の全てが整っていたライムは、その言葉で止まった。困ってしまって俺の方を向く。



 俺とアリアーデは、少し大きな木の下に立っていた。

 イラーザはその木の後ろに隠れていたが、ライムが飛び出したので、顔を覗かせている。


 俺はウエハスに近付く。顔は隠していない。平凡な顔なのでそう警戒はしないだろう。


「あんたさ、あの時、父ちゃん…オランジェに何を渡したんだ?」


「何故、それを…」



「どうして馬車に乗らないんだ。随分と退職金として弾んで貰ったって噂だけど?

 荷物も少ないし、なんかとんでもない高価な買い物をして、金が無くなっちゃったんじゃないのか?」



 イラーザの用意したリボンの話だ。


 ベッドで金貨をあげた時に、彼女から聞いていた話だ。

 …字面がすごいな。


 イラーザがカズミガン森林の冒険に備えて、大金を失った話を俺は詳しく聞いていた。そこに思い当たっていたんだ。

 ライムも知って、貯金は大切って事になった話だ。



ウエハスは顔色を変えた。彼は人の良い隠居みたいな雰囲気を出しているが、修羅場をくぐってきた男の、鋭い目を持っている。



「俺はそれが、気になってしょうがないんだ」

「…一体、あなたは?」


「あの御守りはさ、あそこから二人が逃げ出せるアイテムなんじゃないのか?」



 不意に梢から小鳥が飛び出して来た。人がいたことに驚いて方向展開して飛んでいく。小さな羽ばたきの音が、耳を横切った。



「家族が罰されず、二人も守る。その方法は、約束通り二人を引き渡す事。

 そして、二人にはその後の逃げ道を用意する事」


 俺に向けられていた老人の厳しい目が少し開き、瞳に光が灯る。



「そうだったんだーー!ウエハスさん!そうだったのね!」



 ライムは勢いよく、老体に抱き付いた。

 そうだな、彼女の準備は万端だったんだ。


 ウエハスは慌てて受け止める。よたよたと後ろに下がってしまうが、なんとか踏ん張った。

 その時の様子で、俺の審理は終わった。



 彼が嬉しそうだったからだ。


 彼女につられて、子供のような笑顔が漏れ出してしまった。

 幾度も死線を越えて来たのだろう。そんな深みを感じさせる容貌が屈託なく笑っていた。


 後ろめたい所があったらそんな笑顔はない。彼は誇りをもって行動してたんだ。これ以上聞くのは野暮ってヤツだ。正解だった。俺の引っかかりは全て解消した。



「そうだったんだ!そうだったんだ、ウエハスさん!」

「ライム…お嬢…」


「嬉しい!ウエハスさん、わたし本当に嬉しいよ!」


 彼は、ライムに手を引かれ、勝手にグルグルと回される。日没が迫り、紅に染まりつつある、木漏れ日が彼の目を翻弄する。


「だって、ウエハスさんは、私のおむつを替えてくれた人だもんねー!」

「ふふっははは!ライム…君って子は…本当に!」


 夕日を浴びた彼女の純粋な笑顔が、彼の心を開放した。子供には敵わない。ウエハスの目からたまらず涙が溢れた。



 そのセリフは無いよね。彼女はマジで発していたのか。これも俺はイラーザから聞いていた。信じられなかったんだが。



「……ありがとう。ありがとうライム。こんな私を…信じてくれて…。私こそ嬉しいさ!」


「ダメよ、まねしちゃ。わたしの方が嬉しいもの!そんなわけ無いって思ってたの!

 ありがとうウエハスさん!ありがとう!」


「ふふ…これで、なんの憂いもなくあの世に行ける」


「死んじゃだめだよ!お父様のとこに戻って!お金使っちゃったんでしょ。もしかして家も売っちゃったの?返してもらって!」


 ウエハスはいつの間にか腰も背もしゃっきりと伸びていた。先ほどまで老人だった男は消えていた。十五、いや二十は若返っていた。



 もう見てられない。俺は泣けてきたので、小用を足しに行く。そういう素振りを見せて、踵を返したんだが、イラーザが肩を並べる。


 おまえも並んでやる気なのか?



 アリアーデを見ると、一人立っていた。

 彼女は居心地が悪いとか思わないのだろう。素直に喜びの態度を見せられる。



 森の小道で壮年の男と踊る少女。それを優し気に見守る銀の女神がいた。


 素敵な絵だった。



 端の方でコウモリが二匹覗いている。


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