第226話



*新マルーン邸


 その部屋の天井の高さは低い。彼が以前、暮らしていた館とは比較にもならない。


 建築当初は白かったはずの、壁の上部は黄色くくすんでいる。他に家具や調度品などはなく、ベッドだけが端に置かれていた。


 四角の柱が、多少長いだけのシンプルな造りのベッド。大きさはセミダブル程だ。そのベッドにはマルーンが所在なさげに腰掛けている。


 彼の服装は夜着のままである。

 ルイゼは彼の前に立つ。彼女の服装は貴族として隙なく整っていた。


「…ツダマン様に要請をなさっては如何でしょうか?」

「それは…ならん」


「だって貴方、このままでは…」

「幸いな事に、人的被害はほぼ無いのだ。黙っていれば良い」


「貴方、いい加減になさいまし!今回の目撃者は正騎士ですわ。彼らがツダマン様に報告しないわけがないでしょう?」


 語調を強めたルイゼに対し、視線を逸らしたままの白い横顔が呟くように述べる。


「彼らとて…手を切り落とされ、あまつさえ…怨敵に治療を受けたのだ。プライドが許さないだろう。箝口令をしけば進んで報告はすまい」


「情けない。貴方は怯えておられるのですか。十代貴族としての誇りは無いのですか?魔法も使えるようになったのでしょう。一体何が怖いのですか」


 マルーンは、少し俯いたままの姿勢を動かさず、目だけで妻を見た。彼の大きな灰色の目は血走っていた。


 マルーンは心底怯えていた。

 不思議な力で放り投げられた。あれはトリックなどではない。トキオの重力操作を、彼は感じとっていた。


 あの男は、摂理を超えた所にいる。彼のいう通りだ。あれは人ではない。


 屋敷ごと奪われた時に解るべきだった。あまりに常識はずれで理解できなかった。あれは人の仲間ではない。多分、神の方に近い。挑むのは愚か者のすることだ。


「私とて、敵が人間なら恐れはしない。だが…彼には敵わない。

 敵対は愚かな事だ。できる事なら、屋敷を奪われた後にした己の行動を、なかったことにしたいくらいだ」


「貴方……なんて情けない」

「お前は…彼が、怖くないのか」


「私が恐れるものは、格下の者に侮られることです」


「彼を…格下だと?」



「勿論です。あれは貴族ではないでしょう?」




*瀟洒なホテル



 ホテルのバルコニーから、通りを眺める男がいた。長身のその男が、身を乗り出すと手摺は腰より低い位置にあり、少し危うい印象があった。


 マカンは、後頭部に丁寧に縛られた金髪を揺らす。室内の物音に気付いたのだ。彼は慌てることなく歩を進める。


 ベッドには、優し気な目元の娘が起き上がっていた。

「目覚めたのかい、ファナ」


「…マカン様、一体いつこちらに?」

「フフフ…」


 ファナは身体を滑らせ、ベッドから降りる。


「すみません。寝坊してしまったようですね。昨夜は大変でした。何故、いらっしゃらなかったのですか」


「来ていたさ」


「…そうですか、彼の中にずっと隠れて、覗き見ておられたのですか。悪趣味ですね」

「いや、彼の中には少ししかいなかった」


 ファナは鏡台の前で髪を解きながら、鏡の中のマカンに目をやる。

 マカンは人に憑依できる。今は、この市の総督マルーンに潜り込める。


 昨夜そこに少ししか居なかったとすると、他にも宿主を見つけたのだろうか。彼はつまらない嘘はつかない。


 一体…どこで。ファナは気になった。


「どちらから、ご覧になっていたのですか?」

「フフ…私が覗き見するのは間違いないと?」


「あなたの趣向と今回の目的から、あの男の戦闘を見逃すはずはありませんね」


「そう、私は思い切って、参加していたんだ」



 ファナは、手を止め、彼に振り向いた。マカンはソファーの背に腰掛けていた。体重全てかけるのではなく、体を斜めに預けている。


 彼女から見れば彼は横向きだった。鼻筋の通った、端正な横顔は目を閉じて、何か感慨にふけっているようだ。


「参加…ですか?」


「私は、あの騎士の中に、いたんだよ。憑依ではない。私自身が鎧を着て並んでいたんだ!気づかなかっただろう⁉︎」


 彼は劇中の役者のように、大げさに自らの胸に手を当てていた。



「…やはり、直接倒そうと思って潜んでいたという事ですか?」


「倒そうとは思っていなかった。

 騎士の兜は顔を隠すのには便利だが、ああいう戦いに全く向いていないね。

 私は、あっさり手首を斬り落とされたよ」



「倒そうとは思っていなかったけど…手首を斬られたという事ですか」


「ああ、本当に恐ろしい思いをしたよ。彼は破格だ。次元を超えて速い。

 私はね、空を飛ぶような、瞬間移動するような男の前で、私の無敵性を代表するスキル、自動スロットを空にしていたんだ」


「わざわざ…無防備で立ち向かったと…」


 マカンの顔は愉悦で歪んでいる。本当に楽しそうだった。


 ファナには、彼が何をしたかったのか、何を自慢しているのか理解できなかった。


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