第204話

*交差点



 一瞬で、緑を帯びた髪色の少女は風魔法で引き裂かれた。


 ――かに、観衆たちには見えたが、すんでの所でファナがライムを突き飛ばしていた。


 彼女が吹き飛んだのはファナの力によるものだった。

 風の刃の犠牲になり、服地と鮮血を散らしたのはファナだった。



 遠巻きに見ていた民衆たちがざわめき、息をのむ。その中には冒険者も、ギルドマスターのギーガンもいた。


「お、お姉さん!」

 両手をつき石畳に転がっていたライムが、起き上がってファナに駆け寄る。



 なんだ。あんた、一体何をやってるんだ。

 マルーンの暴挙に驚いたオランジェが立ち上がろうとするが、警吏に両肩を抑え付けられる。顔面を地面で強打した。

 構わず立ちあがろうと力を込めるが、さらに強く地面に押し付けられ、息が吸えなくなる。顔を地面に擦り付けて必死にもがくが、酸素が足りなくなり気が遠くなる。



 ファナの妨害に、マルーンは大して驚かなかった。色の薄い顔を向ける。

「何故、お前が邪魔をする。言っただろう後で治すと?」


「マカン様、どうかおやめください!」


 ファナは上半身を袈裟懸けに裂かれ、白いブラウスを血に染めながらもマルーンに目を向けた。駆け寄ってきたライムをその背に庇っている。


 警吏や、マルーンの護衛たちは顔を見合わせまごついていた。どうしていいか判断できなかったのだ。


 マルーンは、ファナの放った言葉の意味を考えず、そばにいた護衛の剣を抜いた。


 逆らいましたので。斬ってしまいました。

 マカンに対する言い訳を考えると、迷いなくファナを突き刺しにかかった。


 ファナはまるで避けなかった。避けたらライムに向かう刃だったのだ。



「なんで…お姉さん!」


 ライムは驚愕していた。

 がくりと膝をついたファナを背中から支える。この時、彼女は全てを忘れていた。自身も、父親の危機もなにもかも。


 唐突に、自分の身代わりに犠牲になってしまった悲しい女に、何か報いてあげたかった。



 その時ファナが、ライムを見て不思議なことを口走った。


「…お母さん」


 ライムは思う。

 聞いた事ある。死ぬ時は目が見えなくなる。わたしの事を母さんと…。そんなに苦しいんだ。もう目が見えないんだ。


「母さん…って…」


 ああ、この人は死んでしまうんだ。きっと優しいお母さんを思い出しているんだ。もうすぐ死んでしまうんだ。


 捉われて、生きる気力を無くしてしまった悲しい人が、こんな所で。

 わたしのせいで。




「お母さん…って…呼んで…」


 やっとライムに彼女の言葉が、意図が伝わった。ファナが何を求めているのかはわかった。



 でも、ライムには意味がわからない。

 この人は…まだ若いのに何を言ってるの?


 今のファナの姿はおよそ十六歳である。お母さんと呼ばれる歳には見えない。

 ライムには、その意味が理解できなかったが、この人は助からないと思っていた。


 彼女の傷は心臓の直上を通っていた。白いブラウスに刻まれた流血の地図は、その範囲を刻一刻と広げて行く。ライムは行動する人間だ。考えは後からつける。


 今すぐにも彼女が死んでしまうと思ったライムは、望みを叶えようと行動する。

 躊躇いながらも口にしてみる。


「…お母さん?」



 効果は抜群だった。

 ファナの普段は伏せられた眼が開いた。彼女は深い深い、水底のような青い目をしていた。


 ライムは胸を貫かれた。


 悲しみと喜びが混ざった笑顔を見せられた。百年探し続けた娘を見つけた。

 どれだけ遠い道のりだったのだろうか。そんな苦悩が偲ばれる表情だった。


 切ない笑顔だった。ライムはそんな悲哀に満ちた笑顔を見た事がなかった。

 それだけの量の涙をどこに隠していたのか、止めどなくファナの青い瞳から涙が溢れる。


「リーム…」



 迂闊な事を言ってしまった。

 この危機の場所にいるライムが、一瞬で後悔するほどだった。


 嘘で、彼女の心を動かしてしまった。


「リーム、リーム…」


 頭を抱えるように抱きしめられる。頬を寄せ、髪に口づけされる。

 ライムは悲しくなってきた。


 今はこの可哀想な人を支えてあげたい。

 優しく抱きしめていた。



 マルーンの追撃は止まっていた。彼は観劇するように、うっとりと二人を見ていた。

 ファナの傷は致命には至っていなかった。



 マルーンは充分に突き殺す力を込めたが、彼の中の何かが、最後のところで押し止めたのだ。



 ファナは目覚めた。生まれ変わったように身を起こしライムを庇う。


「ありがとう…」


 ブラウスを血に染めた様子のまま、彼女は腕を広げる。

「私の生ある限り、この娘に手を出させたりしない。守ってるみせる」


 ファナには不死の力がある。その言葉には重みがあった。



 守られる形になるライムはもう泣き出しそうだった。

 いや、既に泣いていた。

 娘でもないのに信じ込ませて身を盾にして守られるなんて冗談じゃなかった。


「…あの、私は…」

「大丈夫だわ。…わかっているの。あなたは…ライムね」


 ファナはライムに、後姿のまま語る。


「でもね、奇跡なのよね。あの子の名前を思い出せたの。あなたのお陰でね。

 私ね、ここ百年で…一番、生きているのよね」



 マルーンは満足げに微笑むと、不意に脱力した。


 そして、居眠りから覚めたように頭を振り、辺りを見回した。


 死にぞこないがまだ邪魔をしていると気づいたのか、風魔法を構築し、ファナに見舞った。彼女は倒れなかった。広範囲に及んだ攻撃からライムを守った。


 ライムは泣き叫び、逆に彼女を護ろうと前に出る。

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