第203話

*交差点



 オランジェは考えた。


 言えば良い。従うんだ。


 商談では、お互いの妥協点を探すものだ。自分の要望だけを主張していたら何も得られない。諦めろ。友が命を張ってまで、かけてくれた言葉じゃないか。


 それを言えば、地獄を見なくて済むかも知れない。彼は以前だが、娘の安寧を約束してくれていた。



 マルーンは勝者の薄笑みを浮かべ、軽く手を出したままに問いかける。


「どうしたのだ?お前は、そう語っていたらしいじゃないか。娘を罰するとな?」


 オランジェの心臓が跳ねる。

 やはり知られている。全ては彼の掌の上だった。


 観念するしかない。もう従う以外の道は残っていない。

 それでも、オランジェは考える事をやめなかった。


 この子の心はどうなるのだろう。権力に屈した父親を見て、彼女は絶望するのではないか。


 そうだ。きっとこれは、ただ引き渡すだけでは済まない。

 この場で言いたくない事を言わされる。


 嘘を吐く事になる。公衆の面前で娘を罵倒することを強制されるだろう。それが彼らのやり方だ。間違いなくそうさせられる。


 場合によっては体罰を強要されるかもしれない。


 愛する娘を、この世の宝物を、自分の誇りを、公衆の面前で打つのだ。


 こんなに真っ直ぐに育った。綺麗なもので溢れているこの子の心はどうなる。耐えられるのだろうか。この世界の宝物の、大切なものをこの私が壊してしまう。



 この世には命より大切な思いがある。たった今、親友が教えてくれた事だ。

 オランジェは突然に思った。思ってしまった。


 ウエハスのようにやる。自らが死ねばよいのではないか。死んだ人間に強要はできない。結局この子は自由にはなれないが、なにか最後に教えてやれるのではないか。


 否定したくない。彼女を罵倒することだけはしたくない。ウエハス同じようにやれば良いのではないか。そう思ってしまった。



「お父様、いいの。あの人の言う通りにして。わたしは大丈夫だから」


 どうするか、戸惑いの渦中にいたオランジェだったが、この一言が決め手となった。この場面で、自分より落ち着いてみえる、その強さを護りたかった。


 この子はこのままがいい。許可を貰ったからといって、できない事がある。


 ウエハスに倣おう。済まないウエハス。おまえには地獄から詫びを言おう。俺は言って死ぬ。娘の命の懇願だけをして、潔く散ろう。


 おまえの後を追う。



 オランジェは、同じ姿勢で言葉を待っていたマルーンに目を向ける。


「そんなこと言えません。私の愛する子だ。優しい子なんです!

 自信をもって言える。小動物を殺したりしない!他国と謀略を図るような子なんかじゃない。強くて優しい子なんです!」



「ほうほう。オランジェ、この私が間違っていると言うのか?」


 マルーンの灰色の大きな目が見開かれる。フクロウのように、魔の者のように、首を不可思議にひねった。


「そうでは…ありません」



 オランジェは娘の手を離し、膝をついた。そして懇願する。


「悪いのはすべて私です。私が咎人なのです!私が画策していたのです。この子は何も知らない。親の、私の命令に従ってしまっただけです。

 魔がさしたんです。悪巧みをしてしまいました。この子は関係ありません。どうか、この子の、ライムの命だけは助けて下さい」


 道路にべったりと手をついて、哀れに頭を下げる。さらけだした。格好良く収めようなどとまるで思わなかった。



「…虫が良いな、オランジェ。それを私に通せと言うのだな?」


「お願いします。私です、総督を裏切ったのは。全て私が仕組んだ事だったのです」


 マルーンは灰色の大きな目を細める。薄い唇が弧を描く。

「…良かろう。おいファナ、娘を連れて参れ」



 路地の後ろの方に控えていたファナが進み出る。


 彼女はライムに手を伸ばす。目を伏せたような、優しい顔でゆったりと微笑む。



 ライムは父親を見るが、彼は石畳に伏せたまま微動にしない。この状況で父が決断したのだ。彼女には、従う以外の選択はなかった。

 素直に、その手を取る。



 マルーンの方に進み行く中で、ライムは何度も振り返ったが、オランジェは一度もその顔を見せなかった。額を地面につけて動かなかった。


 ファナはライムを伴い、マルーンの横に立った。

 マルーンは体の向きを変え、手を繋いだままでいたファナからライムを強引に奪いとった。


「この子を守れば、お前にはなにをしても良いとな?」


「はい」


「この子に手を出さねば、お前は何にでも耐えるというのだな?」


「はい」


 何の不満も無い。オランジェは落ち着いた声で答えた。渾身の願いが聞き入れられた。良かった。これでいい。

 彼はマルーンに対し感謝の念さえ覚えていた。



 だが、彼の思いは全て間違っていた。



 彼はどこかで信じてしまっていたのだろう。貴族も同じ人間だと。

 命を賭した思いなら、願いを聞き入れてくれる。ましてや本来こちらに非はない。そこまで腐ってはいないはずだろうと。


 長年連れ添った、ウエハスの潔いやり方に魅了されてしまっていた。


 だが、彼は死んで見せてはいない。決断しただけだ。とても大きな違いだった。



「ごめんだな…」

 

 オランジェは、マルーンが何を言ったかすぐには理解できなかった。


「は…?」


「ごめんだと、言ったのだ!」

 マルーンは笑みの混じった声音で叫ぶと、同時に何か呟いた。ファナはそれに気づき、緊張する。


「ウインドカッター!」

 マルーンは呪文の決めを唱えた。



 彼が手を向けて魔法を放った相手は、オランジェではなかった。

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