第202話

*交差点



 カツ、コツ、カツ、コツ。


 石畳に靴音を響かせ、路地奥から白い肌の男がゆっくりと歩いて来る。

 ぎょろりとした大きな両目が、追い詰められた親娘を捉える。


 皆が恐れる、この街の絶対権力者。総督のマルーンである。

 彼の後ろには護衛の兵士が二人と、警吏の長ケベックが追従している。その誰もが薄笑みを浮かべていた。


 狼の群れの中におびき出されてしまった、哀れな子羊を眺める目だった。

 どうやらオランジェとライムは、決して逃れることができない処刑場に引き出されてしまったようだ。



 ライムは息を呑みながら父親に目を向ける。

 オランジェは叫び出したい泣きそうな気持を抑え、無理矢理笑って見せた。なんとか娘を安心させてやりたかった。



 カツ、コツ、カツ…。

 勿体ぶって近づくまで閉じていた口を、マルーンがやっと開く。


「これ、オランジェよ。こんな所で何をしておる?」



 オランジェは答えない。応えられなかった。どうするか、どうしたらいいか、まだ何も決断出来てはいなかった。


「お前の知能で、この私を出し抜けるとでも思ったか?まんまと引っかかったなあ。

 さて、オランジェよ。お前を裏切ったのは誰だと思う?」



「裏切り者など…」


 最初から、オランジェの返答を聞く気のない様だった。マルーンはケベックに目を向ける。


「連れて参れ」

「ハッ!」


 ケベックが部下に目を向ける。警吏が頷き、列を離れ手を振る。

 黒装束の集団が割れて一人の男が連れだされる。



「旦那様…」


 オランジェには、それが誰であるか、彼が連れて来られる前からわかっていた。



 それは執事のウエハスだった。

 今回、オランジェを裏切れる人間は限られていた。


 弱点があるのもウエハスしかいなかったのだ。家族を人質に取られたのだろう。既に妻は他界しているが、年老いた母親と、双子の娘がいる。


 警吏の、都市総督の命令だ。逆らったら家族の将来の全てを潰されてしまう。

 彼には従う道しかなかったのだろう。



 自分の家族と、娘の事ばかりを考えて、そこにまるで頭が回らなかった事を、オランジェは唇をかんで自戒する。



「オランジェ…」


「何も言う必要は無いさ。済まなかったな、ウエハス」


「…わかってくれるのか、オランジェ」

「ああ、おまえが悪いわけがない。私の考えが甘かった。俺は今だっておまえを信じている」


 ウエハスは涙した。


「ありがたい…そういってくれるか。良かった。これだけが気がかりだった」



 それは余りに意表をついていて、誰にも止める事は出来なかった。ウエハスはナイフを取り出し、自分で胸を突いた



 オランジェは息が止まってしまい、声も出せなかった。自分の目に映っているものがリアルなものに見えなった。


「…オランジェ、もう諦めろ。マルーン様に従うんだ!」


 オランジェは、あぐあぐと口を開くが、何も声が出なかった。


「……それが…できないなら…神様にでも縋れよ…」


「ウエ…ハス…」


 やっと彼の声帯が働き、言葉を生み出した時、ウエハスは前を向いたまま通りに倒れた。



 何某かの音がしたはずなのに、オランジェの耳には何も聞こえなかった。

 辺りが騒然とする。


 既にギーガンたちも、群衆の外の輪まで詰めて来ていた。



「ウエハスさん…」


 ライムの表情はそれほど変化していなかった。ぼんやりしていた。

 彼女にもこれが現実であるとは、捉えられていないようだ。


 オランジェは顔色をなくしていたが、ライムの手を離しはしなかった。

 離しはしなかったが、心は空蝉になってしまっていた。何も考えない言葉が口から漏れ出る。


「馬鹿な…ウエハス…いったい?」



 そこでマルーンが進み出る。彼の白い顔には、なんの感慨も表れていなかった。


「馬鹿でも何でもないだろう。見事な男だったじゃないか」



 表情を作れないオランジェが、絶望の顔を貼り付けたまま、マルーンの方向に目を向ける。


「彼は、お前たちを連れて来いという私の命令を忠実に聞き、そしてお前を裏切らなかった。そういうつもりなのだろうよ。フフ…。


 良いだろう。全て是とするわけではないが、寛容な私は、彼の家族に責を問うのは無しとしようぞ!」


「ハッ!」

 大声の意図を取ったケベックが後列から声を張る。



 オランジェは、一歩も動けなかった。

 今は親友に駆け寄ることもできない。


 胸ポケットに入った、彼に貰ったお守りに一瞬思いを馳せたが、ライムの手を握りしめ、ただ立ち尽くしてしまっていた。


 彼の心情を思うとオランジェは手が震える。


 死ぬ気だった。きっと裏切った自分を罰したんだ。最初からそのつもりだった。命が惜しくて裏切ったわけではないと、魂の潔白を示していった。そういう所のある男だった。



 石畳に伏せたままのウエハスはピクリとも動かない。暗くてわからないが彼の周りに何かが黒く広がっていた。警吏が確認をしてマルーンに首を振る。


 彼は胸にナイフを突き立て、そのまま倒れたのだ。助かるわけがなかった。



 マルーンは頷き、灰色の大きな目をオランジェに向ける。


「それで、お前は何をしている。それは逆賊のライムではないのか?」



 マルーンは手を伸ばす。


「引き渡せ。こう言えば許そう。逆賊のライムを捕えて参りました。とな?」


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