第200話


*抜け道のある倉庫



 夜の倉庫街にひっそりと佇む、レンガ造りの大きな建物があった。四階の小さな窓辺に、不審な様子の男が立つ。

 ごく薄い茶色の髪に、眼鏡の姿。ライムの父親、オランジェである。


 これは、ヨウシの門壁に接した場所にある古い倉庫だ。地下にある秘密の扉から門壁外に出られる抜け道が設置されていた。

 その扉のことは、購入後に偶然発見した仕組みであり、今はオランジェと彼の執事以外に知る者はいない。


 まっとうな商売人のオランジェだが、何が起こるかわからない世知辛い世の中だ。それを秘匿し、商会で普通に倉庫として使っていた。


 彼はうまく娘と合流できたら、その抜け道を通り、海に逃れようと考えていた。


 この世界の海は、巨大なモンスターの支配領域である。以前は対応するモンスターを家畜としていて海を行けたのだが、今はそれが失われて久しい。


 なので現状、海で船に乗る者はいない。追っ手は来ないはず。そう考えた。


 モンスターが現れればそれで終わりかも知れないが、官権から陸路で逃げおおせるすべを、彼は見つけられなかった。


 一応、新開発のモンスター除けの忌避剤は入手してある。あとは運を天に任せる。それが彼の見つけた最善の手だった。


 小舟は既に用意されている。古道具屋でディスプレイに使用されていた物を見つけ、既に整備済みである。


 オランジェはこの倉庫に来るまでにも、影武者を何人か別の所に行かせてからやってから来ている。計画を知る者も、極わずかに絞った。

 後は、何も知らせず金で雇った者達だ。今回の仕組みは知らない。


 何をしているのか知らないまま動くようしてある。密告する事は出来ない。

 この日の為に、無意味な仕事を幾つも発注しておいた。


 準備は万全だ。オランジェは自信を持っていた。

 現時点で、誰にも自分のこの居場所を知られていない。知っているのは長年相棒としてきた執事と、この街のギルドマスターのギーガンだけだ。


 要人の警護としか知らせずに雇った冒険者たちは彼と供にある。周辺の別の建物に集まって貰っている。何も無ければ彼らを使う気はない。


 それらは、集めただけでも十分な陽動になっているはずだ。


 頼むからそちらに警戒してくれ。

 そんな事を考えながら、オランジェは通りを眺める。


 彼は、外から見られないよう細心の注意を払っているつもりなのだろうが、お陰で様子が怪しかった。



 あとは例の仮面の男が、誰にも尾けられずにライムを連れてくればよい。

 それで成功は間違いない。


 この建物に来るためには必ず、目の前の道を通る事になる。尾行者も同じだ。

 それを足止めする手はずもオランジェは整えている。これはギーガンには任せられない。彼が自らやることに決めていた。


 大した仕事ではない。上から荷物を落とすだけだ。派手な音がして中身が散らばる。それには思わず目を奪われる物を用意してあった。ちょっと通行を妨げるだけでいい。それで充分なのだ。


 ライムを、家屋内に入れてしまう時間を稼げばよい。この、都市壁に接した建物の出口は、見た目の構造上、表側にしか存在しない。

 門壁に出入り口は無いのだ。彼らも袋のネズミと考え、無茶はしないはずだ。



 明かりの乏しい暗い階段を、白髪交じりの男が上がって来た。廊下を進み息を整えると、彼は神妙な面持ちでドアをノックする。


「ウエハスか?」

「はい、旦那様」


 オランジェはドアを開け、執事のウエハスを戸口で迎える。

「問題なかったか?」


「はい、吊り下げ機の機能は万全でした。五分ほどで下に降りられるよう設定されています。魔石の操作部は船側にありますので、引き返すことも自在です。

 この機構を売り出せば、海岸へのアクセスは簡単になるでしょう」


「では、新しいビジネスはもう成功したようなもんだな」

「そうです。この都市の立地で海を使わない手はない」


「後は…モンスターの忌避剤次第だな」

「…左様ですな」


 オランジェは満足そうに頷く。彼らは未だに盗聴を危惧していた。商売上の新しい試みの試験を行いに来ている様子で会話を続けている。



 オランジェはこれが最後の時間と、少し年老いた親友の皺のある顔を見つめた。

 ウエハス。確か、年齢は十ほど上だった。随分歳をとったものだ。昔はつるつるだったのに。そんなに苦労させたのだろうか。



 彼らの、ここからの会話は、極々小声で行われた。個人を理解して補完しなければ、会話内容は誰にも理解できないだろう。

 長年連れ添った二人だからこそ成立した会話だ。



「では、今まで本当に世話になった。有難うウエハス。これでお別れだ。俺は……」


「旦那様、こんな事になってしまい、本当に…申し訳ない」

 ウエハスの、老いて少しくぼんだ目に涙が浮かぶ。



「なにを謝ることがあるんだ。盛大な葬式を上げてやる約束を守れず、済まないな」


 二人はお互いの肩を叩き合って笑った。

 二人は昔を思い出していた。

 商売の計画が壊れ、商品はあれど、宿代さえなかった野宿の夜だった。


 極寒の星空の天幕の下で、ウエハスは言った。今は笑えるが、年老いた時にこんなのはごめんだと。朝起きて死んでたら笑えねーだろと。


 その言葉にオランジェが返した会話だった。


 大丈夫だ、将来のふかふかの布団を約束する。おまえはお屋敷の主寝室で死なせてやる。

 死んだら盛大に弔ってやる。おまえの葬式には馬車を並べて、表通りを行進してやる。俺の家族も社員も全員列をなし、おまえの喪に服する。


 オランジェは成功を確信していた。そして、ウエハスを信頼していた。失いたくなかった。だから述べたのだ。

 荷車一つしかない若者が、大きな事を言ってのけた、そんな夜だった。



「旦那様…私は」

「昔のように名前を呼んでくれ。私とお前の仲じゃないか」


「オランジェ…私は……命など惜しくはない。おまえの為なら…」

「よせよせ、その話は終いだ。私はもう行く。ウエハス、あの双子は元気か。退職金代わりになった、トヨウの屋敷はおまえと母親には広すぎる。あの娘らにそれぞれ婿を貰って家族で暮らしたら良いんじゃないか」


「オランジェ…俺は…」


 年老いて皴がよった顔を歪め、ウエハスの年季の入った目は、止めどもない量の涙を生み出し続けた。


「泣きすぎだぞ、ウエハス。すっかりじじいだな。それ以上しわしわになったらどうする」

 そんなセリフを言うオランジェの目にも、隠しきれない光るものが見えた。


「これを…」

 ウエハスがオランジェに渡したものは巻物のような物だった。


「なんだこれは?」

「お守りだ。いいか、これを必ず持っていてくれ。絶望した時に……。

 いいか…神様を信じろ」


「くふふふ…はーはっはっは!クールなおまえがな。俺に…お守りをくれる時が来るとは、夢にも思わなかったよ」


「はは…歳かな」


 オランジェはそれを受け取ると、額の前で祈るように翳し、胸ポケットにしまった。そのままウエハスの肩をつかむと百八十度転回させ、無理矢理に送り出した。


 促され階段を降りながら何度もウエハスは振り向いた。

 オランジェの涙は、とうに頬を零れていたが、わずかな魔石照明しか設置されていない廊下は暗い。胸を張って見送った。


 三十年前には逞しく、頼りがいのあった背中。最近まで、もっとしゃんとしていたはずだが、今は少し痩せて寂しげな男の背中だった。


 先輩であり友人だった。



 この世で一番信用していた腹心の最後の姿を、オランジェは今生の別れと思って、その目に焼き付けた。

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