第188話
「…ちょっと、漏らしちゃって」
俺はわりとあっさり、最高の対応ができた。
結構強い男だった。
屈辱的なセリフではあるが、アレを別の女性の魅力で出してしまったと思われるよりは絶対にましだ。状況判断が素晴らしいぞ。
見上げる岩壁は、どこまでも続き、黒く視界を塞いでいるが。腰が反るほど上方を見れば、青黒い夜空が見える。
この辺りの岩は玄武岩だと思う。火成岩だ。溶岩が急速に冷えて固まった岩だ。
きっとこの世界にも火山があるのだろう。規則性のある岩の形はその時の溶岩の流れが影響しているのだという。
縦列の仕方から言って、相当な量が一度に流れたのだろう。
だが俺の知る限りでは、この辺りで火山の話は聞いた事がない。とっくに無くなってしまったのか。それとも最初から海中に在ったのかもしれない。
とっくに海に沈み、何もかも無くなった所に、海底が隆起してこの大地が生まれたのかもしれない。
この世界には魔力があり、魔獣やモンスターが存在するが、地球とそう差異のない星だ。いや星とは限らなかった。水平線の向こうは滝になっていて、象が三匹で支えているのかもしれないし、でかいおっさんが一人で持ち上げているのかもしれない。
もしかしたら机に置かれた本の中だけの世界かも知れない。
この世界の事をきちんと説明できる人は少ない。皆が何も知らない。情報が少なすぎる。ネットも通信も無いんだ。仕方ない事だろう。
江戸時代はきっとこんなだっただろう。ほら吹きには絶好の世界だ。
そういえば、今まで話題には上がらなかったが、この世界には魔人が支配する魔界があるらしい。
らしい、なんて話をするのはさっきと同じ理由だ。見たこともないし、テレビもないのではっきりとはわからない。
でも、この世の物と思えない程、恐ろしく強い魔獣というのは見たことがある。それが現れると天災といわれる事態だ。
そうそう、俺が目指していたガーの村は、随分魔界に近いようだった。彼らは現状では、人に虐げられやすいのでそんなところに住んでいるのだろう。
魔界、地上の五分の一と、地下の殆どが彼らの領土だという噂だ。一説によるとダンジョンは魔界に繋がっているとか。
百五十年ほど前には、彼らが人間界に攻めてきた記録があるようだ。何でも人類の三分の一が殺されたとか。
それと、これも小耳にはさんだのだが、この世界に精密な機械が存在しないのは彼らが原因らしい。
理由はわからないが、呪いといわれている。書物の流通もろくにない、この世界では噂とか伝説でしかないのだが。
ちなみに人間たちに、魔人たちを滅ぼそうとする意志はないようだ。
触らぬ神に祟りなしなんだろう。
「私が…洗ってやろうか」
やっと、アリアーデがしゃべってくれた。
この間、俺はどうでもいい事を考えながら、一心不乱にジャブジャブやっていたんだ。
とっくに洗い終わっていた。これ以上洗うと布が悪くなる。それでも続けるしかなかった。手が痛かった。
泣きそうになっていた。
いや、だって…もう、どうしていいかわからないでしょ。
立ち上がって、替えのパンツ履くのもなんか…ね。
いやでも、待て、凄いこと言われたぞ。アリアーデどうしたんだ?
「…な、な、なんで?」
「恥ずかしいところを見られて、随分恥ずかしいだろう。気を使っておる」
アリアーデ…。
「安心しろ。誰にも言わない」
彼女は凛としていた。それは貴族の誇りを、命を賭した約束のような雰囲気があったが、俺はそれより気にかかった方を尋ねた。
「できるの?」
「…やったことはない」
ああ、なんて可憐なんだろう。まるで表情を変えない感じが堪らない。彼女の銀眼の瞳孔は、周囲の暗さに随分大きくなっている。いつもの冷たい印象は少ない。
マカン、知らないだろ。この娘にはこんな一面があるんだぞ。
やってもらいたい。家宝にするよ。
でもそれはないよ。ばれたら最低の烙印だし、二度と対等な関係に戻れなくなるよ。
名を呼ばれる時、糞が先に入るよ。糞トキオになるよ。
あれ…その歴史を踏まえて、アリアーデが俺をそう呼ぶのなら。そんなに…悪くない気がする。危機を脱したと思った俺はのんきな妄想をしていた。
その時だった。
「トキオ様ぁ!」
「トキオ様ー!どこに行ったんですかー!」
イラーザとライムが、俺を探す声が聞こえて来る。
ヤヴァい…危機はまだ終わっていなかった。どうしよう。
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