第187話


 俺は時を戻した。


 イラーザに、ええ…まさかあなた?

 って、顔をされる前に、先程刻んだポイントに戻ったんだ。


 やばかった。本当に危なかった。



 しらっとした顔して前に戻れる。俺はそういうつもりだった。

 でも、そうじゃなかった。俺の心は、脳は、身体はそのままだった。


 スイッチは既に押されていたんだ。思わず声が出そうになるが、何とか抑えた。



 時はきっちり、ショートリザーブを刻んだ地点に戻っている。

 イラーザは、自虐的な言葉を口にし、俯いて背中を向けているシーンだ。


 俺は、ハッピーな状態のまま彼女を見る。何もかもが美しく見えていた。

 黒髪の儚げな少女の後ろ姿がベッドの端に座っている。


 隣に座って、そっと手を触れるとビクッと震える。俺には余裕があった。安心させるように髪を撫でた。



 俺は興奮の外にいる。俺は今、明らかに高位の次元にいた。あっち側の、天界の住人のようだ。


 神のような、父親のような気持でイラーザの黒髪を撫でる。神にも父になったことはないが、きっとこれだろう。


 前髪を直すとイラーザの丸いおでこが見え隠れする。


 不安げな瞳を向けるイラーザ。なんて可愛い娘なんだ。潤みを持った真っ黒の瞳が奇麗だった。ぐるぐるじゃない。とても綺麗だった。好きだ。



「俺には、おまえを守る自信がある」

「トキオ様…」


 イラーザはほろりと涙を溢す。

 俺はそっと彼女の額にキスをした。


 そして、バネのきしむ音を一つ残し、ベッドから飛び去った。



 夜空に遠ざかる俺を、イラーザは恋する乙女の目で見ていた。


 完璧だ。




 びっくりするほど、俺じゃない俺が現れた。どこから湧いた人格だろうか。

 岩が間近に迫る、狭い海の浅瀬でじゃぶじゃぶとパンツを洗い、自分の早撃ちを祝福した。


 人として男として、みっともないとは思うが悪くはなかった。

 バレなかったし。


 世の男は、どれだけ勿体ないことをしているのか。


 俺ときたら進んだり戻ったり、本当にゆっくりと彼女と歩んでいける。

 一線を越えても、なかった事に出来るじゃん!


 何度か失敗しても成功出来るじゃん!初体験は海辺の高級リゾートホテルで…少女が描いたような美しい思い出を作れるじゃない。


 俺って最高!



 快感の余韻もあり、当初は自分の恩恵の利便性と、ハッピーな事ばかりを思い浮かべていたが、次第に罪悪感が押し寄せてくる。



 やっぱりだめだ。


 いくら俺が性格悪くても、これは飲み込めなかった。肯定できない。女の子をやっといて知らんふりとか鬼畜すぎる。そのあと何食わぬ顔して過ごすとか糞だろ。


 良かった。俺が、西武開拓史の凄腕ガンマンで良かった。とんでもない過ちを犯さず済んだ。早まった事にならなくて本気でホッとする。


 すごい事には気づいたけど、気の小さな俺には使いようがない。

 万が一行使できるとしても、そういうのは愛のない、行きずりとかの時だろう。

 あんなにキャラのある子はだめだ。


 ひどいだろ。あんなに可愛いのに。


 でも本当に良かった。悪い事をしなくて。心から思う。

 いや待て…。これで良かったとはならないな。


 だって、俺は彼女の唇の味を知っている。

 彼女は知らない…のに。



 ……知らないならいいんじゃない?

 自分の唇を触ってみる。ぶにぶにしてて気色悪かった。


 …俺の唇なんか、知らない方がいいんじゃない?




「何をしておる」



 いきなり話しかけられても、暗がりでも判った。

 声で、瞬間的に判った。


 淡々とした美しい響き。



 俺は、驚きで肩をすくめながらも振り返る。闇に沈んだ海岸でも、輝く銀の姿。見紛うわけもないアリアーデ様だった。



「な、何故ここに…」


 闇にも映える白銀の髪を風に揺らし、アリアーデは後ろを振り返った。真っ黒な馬体が呼応するように鼻を鳴らす。


「ブルル…」


 動かなければ磯の一部に見えていた。毛並みの良い美しい馬身。認識すると毛艶が闇に浮き立った。彼女の愛馬だ。俺も後ろに乗ったことがある。



「海辺を散歩していて、気が向いてふらりとな…」



 ええ…そんな距離じゃなかったような。

 俺が飛んでも三、四時間かかる場所だよ?


「でも…ミドウからは、海沿いには来られないでしょ?」

 俺も気が動転していて、どうでも良い事を聞いてしまう。


「それがだ。海沿いに進んでみたら意外にも浅瀬があってな、岬にも洞窟があってな。通り抜けられた」


 凄いな、アリアーデ、それ新ルート開拓だぞ。


 そうか、海には巨大なモンスターが巣くっているから船に乗る人は少ない。だから今まで知られてなかったんだな。



 いやいや、そんなことを言ってる場合じゃないんだ。俺は周囲に人目がないのをいいことに下半身丸出しだった。

 世間話のように会話はしたが、彼女の聞きたいのはこっちの事だろう。



 『何をしておる』は俺の姿に対する問いかけだろう。

 物怖じしないが定番の彼女にしては、先程から視線が微妙に俺から外れている。



 どうしよう。

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