第176話
*白亜館
マルーン邸の家令の朝は早い。灰色の髪を丁寧に撫でつけた、姿勢正しい男が自室のドアを閉める。
年齢は五十台後半、痩身の身を折り目正しく操り、廊下を歩く。
彼は毎朝、使用人たちが適正に働いているか。各部門の筆頭が挨拶に来ることで確認している。
恙なく日々の仕事が進行していれば報告は何もない。にこやかに朝の挨拶をし、天候の話などをして別れるのが慣例になっている。
彼の部屋から、メインエントランスの鍵開けを行うまでに、毎朝必ず、警備主任と、メイド長とすれ違う事になっている。
問題なく、扉を開けると庭園管理主任が待ち構えている構図だ。
そしてこの館のもう一人の重鎮、コック長とは、家令の朝食時に会談する運びである。
家令はここ十年、このルーティンを過ごして来た。
しかし今日は、自室のドアを閉めた時から違和感があった。
館のあちこちから通って来る、棘のある、感情的なかしましい声が耳についていた。
メイド長に注意しなければいけない。主人の安眠を、使用人の金切り声で邪魔するなどもっての外だ。
目の前に警備主任が現れた。家令は眉を顰める。
身だしなみがまるでなってない。シャツがはみ出している。裾が上がっている。髭を剃っていない。一体どういうつもりだ。
まるで叩き起こされて飛び出して来たような格好である。
「…どういうつもりだ?」
「無いん…ですよ」
不明瞭でまるで要を得ない警備主任に、朝の定番用に無理矢理作っていた笑顔を消す。
「…一体何がだ?」
「何も…かもがですぅ」
警備主任は半笑いだった。家令は怒りを爆発させそうになるが、表には出さなかった。
この程度で、主人の安眠を犯すような真似はしない。
「貴様…まさか酔っているのか。その格好はなんだ。きちんとした説明しろ」
家令は注意しながら、それに気付いた。
今日は曇天のようだが、館内はいつだって明るくするよう、ルイゼに指示されている。
「何故、灯かりをつけない。あの方は暗いのがお嫌いだ。ルイゼ様に叱られたいのか」
「だからー、無いんですよぅ。何もかもがー」
だだをこねる子供のような、間抜けな表情で彼は指をさした。
家令は目を剝く。
いい歳をした大人が。狂ったのかこのうつけが。これだから学のない成り上がりは…。
そう思いながらも、彼が指さす方向には目をやった。
中央玄関のシャンデリアが無くなっていた。
来歴百年を超える、マルーン家の威光を示す逸品が。贅を尽くした、金銀ガラスに宝石を惜しげなくあしらった、家宝級のシャンデリアがそっくり消えていた。
正に無かった。
自重五百キロを超えると言われた、宝物。この館を彩る中心の光が消えていた。
それを吊り下げるための、燻んだ鉄の鎖だけが天井の梁からぶら下がっている。
その大きすぎる存在が失われたエントランスは、明りを失って随分と暗かった。まるで家が滅びたかのような。寒々しい雰囲気がしていた。
「んなっ!」
家令は腰を抜かしそうになったが、手摺に捕まってなんとか耐えた。
ドタドタとメイド長が駆けて来る。家令は目を向ける。髪は乱れ、髪留め曲がっていた。
なんという見っともない走り方だ。ここを何処だと心得ているのか!
「あのー家令さまー、なんかぁなもかも、ないんれすけどー」
時に、恐れ知らずのメイド達にも恐れられる、眼光鋭いメイド長の姿はそこにはなかった。
何を見ているのか、焦点が合ってない目が揺れる。口元は笑っている。
「馬鹿者しっかりしろ!なんだその顔は!言葉遣いは!」
「いやーあろー、コック長とかのがすごいデすよー」
「痴れ者が、恥を知れ!私たちはマルーン様の使用人なのだぞ。いついかなる時も、それを忘れるな!誇りを持て」
警備主任が家令の腕をつかむ。へらへら笑いながら頷いている。
ついて来いという事か。こんな態度は許されない。
家令は、新しいメイド長と警備主任の人事を頭に浮かべながら付き従った。
厨房にはコックコートを纏った男が床に倒れていた。大の字になった男はコックの歌を口ずさんでいた。
ドンドンッ!
部屋の扉を乱暴にたたく者がいる。
「マルーン様ぁ!マルーンしゃまぁ―――!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます