第170話
俺とイラーザは、天井の暗闇から貴族夫婦のやりとりを聞いていた。
この世界の住民なら、昼と間違えるくらいに明るく光の溢れた優雅な居室で、金糸銀糸で身を着飾った貴族が、庶民をネタに笑っていた。
普通ならマジ切れするところだろう。
いや、俺も頭にはきていた。でも、俺の感情は違う方に動いた。
面白い、これは面白い。やる気を起こしていた。
こいつを過剰にやっつけても、心は痛まないだろう。躊躇なく潰していい相手だ。仕方ない、精一杯努力しよう。
この時。俺の性格の悪さがフルに出て。正義を執行することよりも、こいつをいたぶる愉しみの方に心が傾いてしまっていた。
黒い、黒い。この心根はとてもイラーザには伝えられない。
ライムを助けるのは当然だが、今の俺が夢中なのは、そのやり方だった。
彼らの話の中に、俺にとって最悪な危険人物の名前が登場していたが、今俺の優先度はそこではなくなっていた。
俺とイラーザは彼らが去った後、明かりが落とされた居室に、侵入した。
「イラーザ貴族はどうだ。まだ怖いか?」
「滅ぼし…ましょう、彼らは敵です」
そうは言ったが、イラーザは怒りを見せて尚、少し青い顔をしていた。やはりまだ貴族が怖いのだろう。
それはそうだ。ノリに任せてここまで来たが、そんな簡単に心に刻まれた恐怖から脱出できるわけはない。
でも良くなっていると思う。
少し地が戻ってきている。そうだ。おまえの根底にあるのは怒りだろ。それだよ。眉間にしわの寄った、何かを呪うような表情が見えていた。
俺がよく見ていた顔だ。柱の陰から見えてた目だ。なんか安心する。
そこで、イラーザの表情が変わる。呪いが突然抜けた。
「マカン…名前が出てきました。やっぱり繋がっていたんですよ。トキオ様を狙っていたんですよ。大丈夫なのでしょうか」
「…大丈夫じゃないな」
俺は本音を漏らす。イラーザは心配になったのか、暗くなった居室を不安げに見渡した。
窓から庭園灯の明かりが室内を薄青く照らしていた。
「なら、やっぱり。ライムを連れてすぐに逃げましょうよ」
「でも、先に気付いた。敵は、俺がここまで知ったことを知らないはずだ」
俺は、闇に浮かんだ絵を見ていた。船が波に翻弄されている。
まだ見てもいない敵だが、俺がマカンを脅威に思っているのは事実だ。だが、俺はアリアーデを見捨てない。
敵はアリアーデに固執している。いずれ関わらなければいけない男だ。この機会をチャンスと捉える。少しは情報を集めるべきだと思った。
それに、小デブ夫婦を酷い目に合わせてやらなければいけない。精一杯の努力すると決めている。
不安げに揺れるイラーザの瞳を見る。
彼女の黒い瞳は、物が映りやすい。今は庭園からの薄い光が差す床面を映している。
今一番大事なことははっきりした。やってやる。
大丈夫、今の俺はエタニティリザーブを持つ最強の男だ。完全無欠だ。この前とは全然違う。
「大丈夫、俺は逃げる気になったらめちゃ速い。逃げる気になれば、いつでも逃げられる。俺が飛べるのを知っているのは、おまえだけだしな」
「万が一私が捕まっても、それを漏らすことはありません。死んでも秘密は守ります」
「信じるよ」
俺は極めて真面目な顔で答えた。
だが、右手はイラーザの尻を掴んでいた。
何が起きたのかわからないイラーザは、手品で骨を隠された犬のような顔をしていた。
タイミングがわかったんだ。
今なら彼女を止められると。
案の定、また一つ時間停止のカウントが増えた。五も貯めた。危機は迫っている。どんどん貯めて行こう。
俺の右手は未だにイラーザの臀部の質感を感じていた。ちょっと冷たい。
彼女は、口を開けたまま俺を見ていた。
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